放課後の廊下は、いつもより静かだった。 部活の掛け声も、もう遠い。
日下部は、プリントを返し忘れたことを思い出し、教室へ戻ろうとしていた。
曲がり角の向こうから、声がした。
蓮司の声。低くて、抑えた笑い。
そのあとに、遥の短い息が混じる。
日下部の足が、自然に止まった。
ドアの隙間から、教室の中が見える。
夕陽が差し込むその中で、蓮司が机に片手をついていた。
そのすぐ前に、遥。
追い詰められたような姿勢で立ち尽くしている。
「なあ、どうしてお前って、何をされても黙ってんの?」
蓮司の声は、笑っているのに、音の底が冷たかった。
遥は答えない。
蓮司は一歩詰め、指先で遥の顎を軽く持ち上げた。
「目、逸らすなよ。俺、話してんだろ」
その声に、遥の肩がわずかに震える。
けれど抵抗はしない。
日下部の胸の奥で、何かがぐらりと揺れた。
「……離せよ」
遥の声は小さかった。
蓮司は笑いながら顎を離し、指先で制服の襟を軽く掴んだ。
「お前さ、そうやって何も言わないでいれば済むと思ってるだろ。でも、それがいちばんムカつくんだよ」
襟元を掴んだ手が、ゆっくり締まる。
声にならない呼吸。
遥の背中が壁に押しつけられる。
蓮司の顔が近づき、耳元に何かを囁く。
その声は低すぎて、日下部には聞き取れなかった。
けれど――遥の目が、ほんの一瞬、絶望で凍りつくのが見えた。
日下部の拳が震える。
足が勝手に動きそうになる。
だが、動けなかった。
その場の空気が、あまりにも静かすぎた。
息をすれば、その音だけで割れてしまいそうな静けさ。
「……お前、変わらねぇな」
蓮司の声が再び聞こえた。
「誰かが痛がってても、謝るのはお前だ。……それが一番都合いいんだよ」
遥は何も言わない。
けれど、その沈黙が抵抗に見えた瞬間――
蓮司は軽く遥の肩を叩いた。
笑いながら、低く告げる。
「明日も、ちゃんと来いよ。お前がいないと、空気が死ぬ」
そう言い残して蓮司は教室を出ていった。
ドアが閉まる音だけが、異様に響いた。
中に残された遥は、壁に背を預けたまま動かない。
ゆっくりと膝を折り、息を吐く。
その姿を、日下部は廊下の影から見ていた。
何かを叫ぼうとしたが、喉が塞がる。
頭の中が真っ白になった。
殴りかかるべきだと思った。
けれど、蓮司の言葉が脳裏をよぎる。
――「俺がいなくなったら、あいつ、誰にも見つからないまま沈む」
それがどういう意味なのか、いまの日下部には分からなかった。
ただ、分かるのはひとつ。
“もう戻れない”ということだけ。
教室の中では、遥がゆっくりと立ち上がっていた。
手のひらが震えている。
けれど、顔には何の感情も浮かんでいない。
ただ、いつもの静かな遥に戻っていく。
その姿を見た瞬間、日下部は息を呑んだ。
――壊れることにも、きっと慣れるんだ。
そう思った。
廊下の影の中で、拳を握り締める。
けれど、その拳もまた、どうしようもなく空っぽだった。
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