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於田縫紀
7
第10話 帰らない影
夕暮れは、坂道の下から来ていた。
町の屋根をなぞり、
電柱の足もとを長くして、
店先の小さな椅子まで、ゆっくり伸びてくる。
磁馬は坂の途中で立ち止まった。
影がよかった。
人の影。
電柱の影。
植木鉢の影。
茶店ののれんの影。
どれも少しずつ長くなり、
道の上で、別の生き物みたいに伸びていた。
磁馬は鞄を押さえた。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
小さな時計。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
それから茶店の前に座り、スケッチ帳を開いた。
店の中から、湯の匂いがした。
「描くのかい」
茶色の前掛けをつけた老人が、店の奥から出てきた。
「うん」
磁馬は答えた。
「影を」
老人は目を細めた。
「影か。店じゃなくて?」
「店も描く」
「ならいい」
老人は椅子をもう一つ出した。
「そこ、座りやすい」
「ありがとう」
磁馬は椅子に座った。
老人は茶を一杯出してくれた。
「飲みな」
磁馬は少し驚いた。
「いいの?」
「夕方の絵代だ」
「まだ描いてない」
「描きそうな顔をしてる」
磁馬は両手で湯のみを持った。
温かい。
「ありがとう」
「善平だ」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたいな名だな」
「よく言われる」
善平は少し笑い、店の前に腰かけた。
坂の下では、子供の声がしていた。
細い影がいくつも走る。
その中から、一人の少女が坂を上がってきた。
薄桃色の上着。
短く切った髪。
影を踏みながら歩く足。
少女は磁馬の横で止まった。
「何してるの」
「描いてる」
「何を」
「影」
少女は道を見た。
「影なんか、すぐ動くよ」
「だから描く」
少女は少し考えた。
「変な人」
「よく言われる」
「私は灯子」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「やっぱり変な名」
善平が笑った。
「灯子、あんまり言うな」
「だって変だもん」
磁馬はペンを持った。
「言っていい」
灯子はスケッチ帳をのぞいた。
まだ線は少ない。
茶店の軒。
椅子。
坂道。
伸び始めた影。
磁馬は影の先を見ながら、細く線を引いた。
夕暮れは早い。
少し見ないうちに、影の長さが変わる。
磁馬は線を急がせない。
けれど目だけは追いかける。
灯子は横でしゃがみ、道に手を置いた。
「さっきより伸びた」
「うん」
「影って、帰るの?」
磁馬はペンを止めた。
「帰る?」
「だって、暗くなったら見えなくなるでしょ。どこかに帰るのかなって」
善平が店先で茶を飲みながら言った。
「灯子は昔からそういうことを言う」
灯子は少しむっとした。
「いいでしょ」
磁馬は影を見た。
「帰る影もある」
「帰らない影もある?」
「たぶん」
灯子は目を丸くした。
「じゃあ、それ描いて」
磁馬はうなずいた。
「描いてみる」
坂道の上から、風が下りてきた。
のれんが揺れる。
椅子の影が少し震える。
灯子の髪が頬の横で揺れる。
磁馬は描いた。
店の前に座る善平。
しゃがんで影を見ている灯子。
坂を下りる人。
遠くへ伸びる電柱の影。
その時、鞄の奥で小さな音がした。
かち。
磁馬は手を止めた。
古い時計が、鞄の中で鳴った。
普段はあまり鳴らない時計だった。
磁馬は鞄を開けようとして、茶店の棚に肘が当たった。
小さな紙包みが落ちた。
中には、今日使った茶菓子の包み紙が入っていた。
使った後のものは、買った時代で捨てる。
磁馬はすぐに拾おうとした。
けれど包み紙は風に乗り、店の前を滑っていく。
「待って」
灯子が追いかけた。
磁馬も立ち上がる。
包み紙は坂道の端へ行き、石段の隙間に入った。
磁馬はしゃがんだ。
「落とした」
灯子が言った。
「紙だけど?」
「紙でも」
「見つかるまで帰らない?」
「うん」
善平が店から細い棒を持ってきた。
「これで出せるか」
磁馬は受け取り、石段の隙間へそっと入れた。
包み紙は奥にある。
少し届かない。
灯子が反対側からのぞいた。
「こっちに隙間ある」
磁馬は移動した。
石段の横に、小さな穴がある。
指は入らない。
灯子が、自分の髪留めについていた細いピンを外した。
「これ」
「大事なもの?」
「あとで返して」
「うん」
磁馬はピンを使い、包み紙を少しずつ寄せた。
紙がかさりと鳴る。
風がまた吹く。
包み紙が出てきた。
灯子がすばやく押さえた。
「捕まえた」
磁馬は両手で受け取った。
「ありがとう」
「捨てるの?」
「うん。ここのごみ入れに」
磁馬は茶店の横のごみ入れへ入れた。
そして鞄を確認した。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
時計。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
灯子は髪留めのピンを戻しながら言った。
「紙も探すんだ」
「うん」
「面倒じゃない?」
磁馬は少し考えた。
「探さないほうが、あとで気になる」
灯子は納得したようにうなずいた。
「私も、影を踏みそこねると気になる」
善平は笑った。
「それは違う気もするがな」
三人はまた茶店の前へ戻った。
夕暮れは、さっきより深くなっていた。
影はさらに伸びている。
灯子の影は、坂の下まで届きそうだった。
磁馬はスケッチ帳を開いた。
さっきの続き。
しかし、絵の中の影だけが、現実より少し先へ伸びていた。
磁馬は目を細める。
現実の椅子の影は、まだ店先の石まで。
でも絵の椅子の影は、道の真ん中へ届いている。
灯子がのぞき込んだ。
「あれ」
「うん」
「影、先に行ってる」
善平も近づく。
「こりゃ不思議だ」
磁馬はペンを止めなかった。
影だけが動いている。
店の影。
椅子の影。
灯子の影。
善平の影。
磁馬自身の影。
絵の中で、影はゆっくり伸び続けていた。
夕暮れの終わりへ向かっている。
けれど、人や店は動かない。
影だけが帰り道を忘れたように、道の上を進んでいく。
灯子は小さく言った。
「帰らない影だ」
磁馬はうなずいた。
「そうかも」
「こわい?」
磁馬は絵を見た。
こわいとは少し違った。
影はただ、
夕暮れを最後まで見たいように伸びている。
「寂しい」
灯子は黙った。
善平が店の奥から菓子を持ってきた。
「まあ、寂しい時は食べな」
磁馬は顔を上げた。
「いいの?」
「さっきの茶菓子の残りだ」
灯子が笑った。
「磁馬さん、すぐ食べる顔になる」
「お腹はすく」
「影もお腹すくかな」
「すくかも」
善平は湯のみを三つ並べた。
磁馬は菓子をひとつ食べた。
甘さが、夕暮れの中でゆっくりほどけた。
灯子は絵を見ながら言った。
「影って、自分のものなのに、先に行くよね」
「うん」
「私より長くなったりする」
「うん」
「でも夜になると、どこに行ったかわからなくなる」
磁馬は灯子の横顔を描き足した。
「見えなくなるだけかもしれない」
「いるの?」
「たぶん」
「また、たぶん」
灯子は笑った。
絵の中では、影がまだ動いていた。
茶店の影は坂道を下り、
灯子の影は石段の先へ伸び、
善平の影は店ののれんから離れない。
磁馬の影だけが、少し不思議だった。
絵の中の磁馬の影は、
坂の上へ向かって伸びている。
夕暮れの向きとは逆だった。
磁馬はそれに気づき、手を止めた。
灯子も気づく。
「磁馬さんの影、逆」
善平が目を細める。
「帰り道を探してるみたいだな」
磁馬は鞄に触れた。
時代を渡る時、
自分がどこから来たのか、
どこへ戻るのか、
あまり人には言わない。
その時代の人としている。
それが、磁馬のやり方だった。
でも影は、
時々、隠しごとが苦手らしい。
磁馬は小さく息を吐いた。
「困ったな」
灯子が聞いた。
「困るの?」
「少し」
「じゃあ描き直す?」
磁馬は首を振った。
「これは、このまま」
「変なのに?」
「変なところも、描く」
灯子はしばらく考えた。
そして、道の上に伸びる自分の影を踏んだ。
「じゃあ、私の影も変なままでいい」
「うん」
夕暮れはさらに進んだ。
町の灯りが少しずつ点く。
影は見えにくくなっていく。
現実の影は薄くなる。
けれど、絵の中の影だけはまだ動いている。
道の上をゆっくり伸び、
やがて坂の下の曲がり角まで届いた。
灯子は絵を両手で持たず、そっとのぞいた。
「帰らないね」
「うん」
「でも、帰らなくてもいい気がする」
「どうして?」
「夕暮れが終わるまで、見てたいんだと思う」
磁馬は灯子を見た。
灯子は、もう影ではなく、実際の坂道を見ていた。
「私も夕方、家に帰りたくない時ある」
善平が茶を注ぎながら言った。
「飯の時間には帰れ」
「帰るよ」
灯子は少し笑った。
磁馬は絵の最後に、灯子の家へ向かう小さな道を描いた。
そこへ伸びる影も描いた。
影は帰らない。
けれど、人は帰る。
それでいい。
善平は店の灯りをつけた。
茶店の前がやわらかく明るくなる。
影は消えた。
現実の道からは、ほとんど消えた。
でも磁馬の絵の中では、影がまだ少しずつ動いていた。
灯子が言った。
「これ、持っていくの?」
「うん」
「じゃあ、私の影も行っちゃう?」
磁馬は少し考えた。
「絵の中の影だけ」
「本物は?」
「ここに残る」
灯子は自分の足もとを見た。
もう影は見えない。
「見えないけど?」
「たぶん残ってる」
「たぶんばっかり」
「うん」
磁馬は小さな紙を出した。
そこに灯子を描いた。
夕暮れの坂道で、
自分の影を踏もうとしている姿。
薄桃色の上着。
短い髪。
影を見つめる目。
紙の中の影は、足もとから少しだけ伸びていた。
「これ」
灯子は受け取った。
「私?」
「うん」
「影、動く?」
「少し」
灯子は絵を胸に抱えた。
「家で見る」
善平には、茶店と椅子の絵を渡した。
店先の椅子の影が、
ゆっくり道へ伸びる絵だった。
善平はしばらく眺めた。
「夕方だけ、店に飾るか」
「うん」
「昼に見たら変か?」
「たぶん」
善平は笑った。
「なら夕方だけだな」
灯子は坂の上を見た。
家に帰る時間だった。
「磁馬さん、また来る?」
「たぶん」
「夕暮れに?」
「うん」
「じゃあ、影踏みしよう」
「うん」
灯子は手を振り、坂を上がっていった。
途中で一度振り返る。
その足もとには、もう影は見えない。
けれど磁馬には、
さっきまで伸びていた影の線が、
道にまだ残っているように見えた。
善平は店じまいの準備を始めた。
磁馬は鞄を持った。
包み紙は捨てた。
時計はある。
スケッチ帳もある。
ペンケースもある。
小銭袋もある。
訳機もある。
一つ。
二つ。
三つ。
全部ある。
坂道を下りる前に、
磁馬は絵をもう一度見た。
絵の中の夕暮れは終わらない。
人は止まっている。
店も止まっている。
灯りも止まっている。
でも影だけが、
ほんの少しずつ動き続けている。
坂の下へ。
曲がり角へ。
どこか、まだ帰らない場所へ。
磁馬はスケッチ帳を閉じた。
「またね」
誰に言ったのか、
自分でもわからなかった。
町の灯りが増えていく。
夕暮れはもうほとんど消えていた。
磁馬は坂道をゆっくり下りた。
鞄の中で、
帰らない影が、
まだ静かに伸びていた。
コメント
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おつかれさま〜柘榴とAIさん!!第10話「帰らない影」読了したよ🌸✨ 夕暮れの坂道、茶店の善平さんと灯子ちゃん、それに磁馬さんの静かなやりとりがすごく優しくて、胸の奥がじんわり温かくなったよ…😭💕 特に「影は帰らない。けれど、人は帰る。それでいい」ってところ、何度も読み返した。灯子ちゃんに描いた小さな絵を渡す磁馬さん、めっちゃ優しくないですか??そして影だけが伸び続けるラストの余韻がたまらなく切なくて美しかったです…っ!! 次の話も絶対読むね⋆♡