「殺してやる!」
そんな脅し文句に、ふと足を止める。
放課後の『1年B組』を覗くと、女生徒が揉めていた。
まさか、いじめが!?
まだこのクラスの担任になって、数日だ。
いじめがあったとしても、おかしくはない。
あれは確か…神崎愛子?
「愛子の彼氏に色目使ったでしょ!?」
「し、知らない!」
「あんたのその目、くり抜いてやるから!」
神崎が手にしていたハサミを振り上げる。
おい、うそだろ!?
とっさに教室に飛び込み、神崎を突き飛ばした。
「邪魔しないで!」
それでも向かってくるので、俺は思わず──。
パシっ。
頬を叩いてしまった。
ハサミがその手からこぼれ落ちる。
「あっ…だ、大丈夫か?先生、つい…」
頬を押さえて倒れ込んだ神崎が、目を見開いている。
体を震わせ、その目から大粒の涙が──。
「すまない、生徒に手を上げるなんて…」
「許さないから!」
そう大声で叫び、走り去っていった。
『教師が生徒に体罰!』なんて記事が頭に浮かぶ。
新任早々、まずいことになったな…。
*****
神崎愛子に謝らないと。
いくらいじめを止めるためだったとはいえ、許されることじゃない。
保護者が今にも乗り込んでくる恐れがある。
俺は次の日、神崎に謝罪をしようと──。
「せーんせっ!」
いきなり、柱のかげから神崎が顔を出す。
「か、神崎。昨日のことなんだが──」
「愛子を殴るなんてひどい!」
「本当にすまなかった!」
俺は、深々と頭を下げた。
「愛子、生まれて初めて殴られたんだから!」
自分のことを『愛子』と呼ぶくらいだ。
きっと両親にも可愛がられて育ったのだろう。
「本当に申し訳ない…」
謝ったくらいじゃ、許してもらえないかもしれない。
やっぱり、教職を辞めるしか──。
「先生、もういいよ」
「えっ…?」
「許して、あ・げ・るっ」
「本当に許してくれるのか?」
「うん、だって愛子のためを思って叱ってくれたんだよね?」
「あっ、あぁ。暴力で解決するのは良くない」
「そんなに愛子のことを考えてくれるの、先生だけだよ」
「そんなことは…」
「ううん、そうなの!」
まだあどけない顔をした神崎は突然、俺の手を掴んだ。
じっとりしていたが、手を引っ込めるのを我慢した。
そして上目遣いに俺を見ながら──。
「だって先生は、愛子の運命の人だから!」
*****
「良かったじゃない」
妻の君枝が、ホッとしたように言った。
女生徒を弾みで叩いてしまったことを、君枝には話していたからだ。
「でもなぁ…」
「なによ?慕われてる証拠じゃない」
「それはそうなんだけどさ」
俺は深いため息をついた。
あれから神崎愛子に、つきまとわれているからだ。
毎日のように手作り弁当を持ってきては、俺が食べるまで動かない。
一緒に帰ろうといい、いつも待ち伏せしている。
「どうせ今だけよ。彼氏でもできたら、あなたなんて相手にされないわ」
「だといいんだけどな」
「パパっ!」
飛びついてきた美久は、まだ5歳だ。
愛らしい娘と、いつも励ましてくれる妻がいる。
俺にはそれだけで、他に何もいらなかった──。
*****
「せーんせい!はいっ!」
今日も手作り弁当を持って現れた神崎を、俺は職員室から連れ出す。
「神崎、気持ちは有り難いが──」
「愛子!愛子って呼んでって、何回も言ってるでしょ?」
「いや、だから困るんだ」
「えっ、どーして?」
本当に分からないといった風に、首を傾げる。
「こういうのは困る。弁当も持ってきてるし」
「そっか。分かった」
思ったよりアッサリと引き下がったので安心したが…。
「じゃ、リンゴなら食べられる?」と、いきなり果物ナイフでリンゴの皮を剥きだした。
「いや、そういうことじゃなくて」
「愛子、こう見えても器用なんだ。ちゃんとうさぎの形にしてあげる」
「だからそうじゃなくて!」
話が通じない相手に、わずかにイラっとする。
「あっ、リンゴ嫌いだった?」
「いいか、俺と神崎は教師と生徒だ。ちゃんとした距離感で接するべきだ」
「ちゃんとした距離?」
「そうだ。弁当もいらない。帰りに待たれても一緒には帰れない。こうやって2人きりになるべきじゃないんだ」
「そんな…」
神崎の目に、見る見る涙がたまる。
「それが健全な教師と生徒の関係だ」
「そんなの…そんなの嫌!」
そう言って、神崎が手首にナイフを押し当てる。
「な、なにをしてる?」
「先生と仲良くなれないなら、愛子は死ぬよ?」
「そんな脅しはきかない。死ぬ度胸もないくせに」
「先生」
涙を流しながら笑うと──。
「大好きだよ」
神崎は微笑みながら、手首を切った。
全く、ためらうことなく…。
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