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五時間目の体育。日差しは容赦なく、グラウンドを焼いていた。
遥は無言でジャージの裾を握っていた。整列の列から半歩外れている。それが“お約束”であるかのように、隣の生徒がわざとらしく肩をぶつけてくる。軽い笑いが漏れる。
「おい、また一人だけ手抜いてんぞ。名前、なんだっけ? あー……誰も覚えてねえか」
体育教師が曖昧に笑ったまま、声を出すことはなかった。
ドッジボールが始まる。チーム分けのとき、「余ったやつで」と誰かが言った。遥は浮いたままコートに立たされた。ボールは何度も彼に向けて放たれる。顔、腹、膝。わざと避けるタイミングを奪うように、仲間の背後から不意に投げられる。
尻もちをついたとき、背中に砂埃がついた。笑い声が響いた。蓮司のものも、その中に混じっていた気がした。
──が、それは遥にはどうでもよかった。全員の笑い声は、輪郭を持たずに混ざっていた。ただただ、「自分がいる」という違和感だけが、グラウンドの中央に立ち上がっていた。
放課後。
靴箱で何かが砕けた音がした。遥が手を伸ばす前に、誰かが「落としたよ」と笑って、靴を差し出した。真っ黒に塗られていた。つま先が切られ、中敷には画鋲が貼りつけられていた。
「まだこれ履けるって、おまえすごいな。俺だったら泣いて帰るわ」
蓮司だった。悪びれた様子もない。だが、その目にはほんの少し、悪意よりも興味の方が勝っていた。
──壊れていく過程を、ただ見ているだけの人間。
「……」
遥は黙って靴を受け取った。右足を入れると、かかとからぬるい感触が染みた。絵の具か何かが仕込まれていたのかもしれない。けれど、それすらも何も感じなかった。ただ、学校を出たい。その一心で足を動かした。
帰宅後。リビングには義母の怒鳴り声が渦巻いていた。
「颯馬が泣いてるじゃない! またあんたでしょ、何したの? 黙ってないで言いなさいよ!」
「……何も、してない」
「その口の利き方は何?」
異母弟の颯馬は義母の背中に隠れながらも、わざとらしく涙を流していた。沙耶香はソファに座り、足を組んだまま、スマホを見ながら微笑んでいた。怜央菜は台所の奥で冷笑している。
晃司が部屋の奥から出てきた。
「……お前、今日学校で何やったの?」
「……」
「聞いてんだよ、クズが」
殴られた。頬が焼けたように痛んだ。頬の内側が切れたのか、鉄の味がじわりと口に広がる。
リビングの空気が、濁った油のように絡みつく。遥はうつむいたまま、その場に立ち尽くした。
誰も、彼の名前を呼ばなかった。
それが、この家の「日常」だった。