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第1話 冴えないウーパールーパー
朝の通勤路は、今日もやけに整っていた。
駅へ向かう歩道の端には、湿度表示の細い柱が等間隔に立ち、種別ごとのおすすめ通路が淡く灯っている。乾いた場所を好む者の案内、温度差に弱い者の案内、水場の近い裏路地への案内。見上げれば、商業区へ渡る空中回廊の下を、羽のある者たちが早足で抜けていく。地上では、足の短い種向けの低速歩道が、いつものようにゆっくり流れていた。
その流れの横を、イオルは紙袋を脇に抱えて歩いていた。
肩は狭く、背は平均より少し低い。くたびれた灰色の上着は襟の端がわずかに癖づき、袖口は何度も擦れた跡で柔らかくなっている。人の体に、ウーパールーパーの頭が乗っている。丸くひらいた外鰓は朝の湿り気を吸って少しだけふくらみ、肌はつるりとして、寝起きのぬるい光をそのまま受け止めたような薄い質感をしていた。大きな目は潤んで見えやすいが、本人は眠そうに見られるのをあまり好いていない。口元は元から笑っているような形をしているせいで、何も考えていなくても、なんとなくやわらかい印象になる。
良く言えば穏やか。
悪く言えば、印象が残らない。
改札前の大型表示板に、今日の街の変異速報が流れていた。
小さな文字列が縦に更新されつづける。
配達補助に向く方向感覚の変異、寝具売場で重宝される温度維持の変異、工場の検品で誤差を見抜く変異、保育施設で泣き声の違いを拾える変異。どれも派手ではない。けれど、今朝どこかで誰かの暮らしをほんの少し押し上げるのだろうと思わせる並びだった。
表示板の前で足を止めていた学生風のメダカ頭が、隣の連れに肩を寄せた。
「見て。これ、いいな。味のばらつき拾えるの」
「食品系で強いやつじゃん」
「職場で欲しがられるね」
「親、喜ぶだろうな」
笑いながら通り過ぎていくふたりの背中を見て、イオルは改札に視線を戻した。
紙袋の口から、丸い容器の縁がのぞいていた。駅前の惣菜店で受け取った、昼のまかない用のスープだ。店主が朝の仕込みで余らせた分を詰めてくれる。こぼれないように水平を保つのが、朝の仕事みたいになっていた。
ホームは混んでいた。
前にはダックスフンド頭の会社員。短い脚に合わせて仕立てた細身のスラックスがよく似合っている。耳が肩のあたりで揺れ、そのたび、周囲の人間たちが自然に一歩ぶんだけ位置をずらした。ぶつからないための、慣れきった動きだ。
後ろにはウーパールーパー頭の女性がふたり並んでいた。片方はつやのある緑のカーディガンに細い帯のバッグ、もう片方は水色寄りのスーツに艶のある靴。耳元の端末で動画を見ていて、そこから小さな歓声が漏れた。
「見た? 昨日の特番」
「見た見た。あの子、また出てた」
「同じ種なのに、ぜんぜん違うよね」
「顔がかわいいっていうより、なんか抜けるんだよな。画面越しでも」
ふたりは悪気なく笑っていた。
イオルはその会話が自分に向いていないことを知っていたし、向いていたとしても困るだけだと思った。けれど、同じ種なのに、という言い方だけが、少しあとまで耳の奥に残った。
電車の窓に映る自分の姿を見た。
眠そうな目。
やわらかい口元。
派手な輪郭のない顔。
それでも、角度によっては、悪くないのではないかと思う日がある。照明がやさしい店のガラスに映ったときとか、帰り道で人通りが少なく、余計な影が消えたときとか。そういうときだけ、胸のどこかが勝手に先走る。
有名になれたら。
自分でも、似合わない考えだと思う。
けれど、その一言は昔から、ふとした拍子に浮かんでは、何もなかったふうをして沈んでいった。
勤務先は、駅から五分の場所にある生活用品の複合店だった。
一階が食品、二階が衣料、三階が寝具と小型家電。イオルは二階と三階のあいだを行き来する雑務担当で、売場の補充、段ボールの回収、試着室の見回り、濡れた場所の連絡、落とし物の引き渡し、そうした名前の残りにくい仕事を引き受けている。
従業員通路の奥で、制服の上着に着替える。
鏡の前には、もう先輩のフミがいた。メダカ頭の女で、顎から頬へかけての輪郭が小さくきりっとしている。短く整えた髪の上にかぶる帽子も、いつも位置がずれない。胸元の名札の角度まで正しい人だった。
「遅れてない?」
「まだ三分あります」
「ならいい。今日、寝具の搬入口、朝から詰まってる。行ける?」
「はい」
「あと、昼前に撮影入るって」
「撮影」
言いながら、イオルは袖のボタンをとめる手を止めた。
フミは端末を見たままうなずいた。
「生活特集。種別対応住宅の便利設備とか、そういうやつ。三階の湿度調整コーナー、映るらしい」
「へえ」
「へえじゃなくて、ちゃんとして。映りたかったら」
顔を上げると、フミがようやくこちらを見た。
細い目が少しだけ笑っている。
「べつに、映りたいわけじゃ」
「言い方が遅い」
フミはそう言ってロッカーを閉めた。
「ウーパールーパー、多いんだから目立ってなんぼでしょ。こないだも別店舗から出てたじゃん。湿度家電の紹介で。感じよかった」
「見てないです」
「見なよ。勉強になるから」
フミは歩きながら背中越しに手を振った。
「顔の出し方とか、立ち方とか」
「立ち方」
「あるでしょ」
「ありますかね」
「あるの。印象に残る立ち方」
通路の角を曲がるフミの足音が消えた。
イオルはひとりになってから、鏡の前でもう一度だけ立ち直した。
背筋を伸ばす。
顎を少し引く。
紙袋を持っていない手を自然に下ろす。
自然に、という言葉が入った瞬間、不自然になる。
鏡の中の自分は、相変わらず穏やかで、薄く、冴えなかった。
搬入口には本当に荷が詰まっていた。
寝具売場向けの箱が山になり、その手前でダックスフンド頭の配送担当が額の汗を拭いている。背は低いが腕が太く、作業用のベストの背中には会社名が大きく入っていた。
「助かる。これ、湿気吸う前に出したい」
「どれから」
「上の軽いの。枕カバー。下はあとで」
イオルは箱を抱えた。思ったより軽い。
台車に積んで三階まで運ぶ。湿度調整コーナーは、季節の変わり目になると客が増える。種別ごとのおすすめ素材が並び、乾燥しやすい頭部向けの保湿枕、寝返り時の圧を逃がす敷具、肌触りではなく湿り気の保ち方で選ぶシーツ、見慣れた品々が朝の光の下で整っていた。
売場にいたパートのミナセが、端末を片手に棚の前でしゃがんでいる。
ウーパールーパー頭の女で、外鰓の先を短く整え、全体の輪郭が丸い。制服の下に着た茶色の長袖が、やわらかく身体に沿っていた。笑うと口元が横に広がり、客から話しかけられやすい顔だとすぐわかる。
「おはよ」
「おはようございます」
「今日、撮影来るんだってね」
「らしいです」
「どうしよう。売場、もうちょいかわいく見せたいな」
ミナセは立ち上がると、枕をひとつ抱えて首をかしげた。
「この角度かな」
「何がです」
「映る角度。商品もそうだけど、人も」
「また」
ミナセは笑った。
「イオル、顔いいのにもったいない」
「そんなことないです」
「あるよ。なんか、見てると落ち着くし」
「売場向きですね」
「そこ、否定しないんだ」
棚に枕を戻しながら、ミナセはふっと声を落とした。
「でもさ。売場で終わる感じ、あるよね」
「あります?」
「ある」
言い切ってから、まずかったかなというふうに唇を結ぶ。
けれど、すぐに肩をすくめた。
「私もそうだから。悪い意味じゃなくて」
「わかります」
「ね。わかっちゃうんだよね」
二人で笑った。
笑いながら、イオルは少しだけ息が詰まるのを感じていた。
わかる、という言葉は便利だ。
そして、たいてい残酷だ。
昼前、撮影隊が来た。
大きな機材ではない。手持ちカメラが二台、音声ひとり、進行ひとり、ディレクターらしき人物がひとり。売場責任者が案内し、生活特集のテロップ案らしい紙が端末に並んでいる。
進行役はダックスフンド頭の若い男だった。整ったスーツに、足の短さを逆手に取ったような軽快な身ぶり。立っているだけで場が締まる。
イオルは少し離れた通路で、返品箱の仕分けをしながら様子を見た。
照明を足す。
棚の端を拭く。
商品を少し前へ出す。
画面のために行われる細かな手直しが、いつもの売場を別の場所に変えていく。
進行役が笑う。
責任者がうなずく。
ミナセが補助として商品を手渡す。
撮影の空気は柔らかいのに、その輪の外へ出ると急に冷える。自分はここではないと、肌でわかる。
返品箱の底に、小さな鏡が入っていた。化粧台用の安い卓上鏡だ。誰かが誤って混ぜたのだろう。
ふと、それを持ち上げてみる。
売場の照明が頬の下に回り、外鰓の輪郭が薄く透けて見えた。目の潤みも、今日は少しだけ深く見える。鏡の中の自分は、朝の駅で見た顔より、幾分ましだった。
イオルは鏡を棚の端に立てて、もう一歩だけ近づいた。
口を開く。
閉じる。
また開く。
「本日は、種別対応の寝具を」
声が、自分で思っていたより通った。
イオルは目を瞬かせた。
空気の筋が、まっすぐ前へ伸びたような感覚。大げさな響きではない。けれど、言葉の先端だけが、するりと遠くまで滑っていく。
鏡の中の自分が、わずかに輪郭を持った気がした。
「乾燥しやすい頭部を持つ方にも」
言いかけたところで、背後から拍手が鳴った。
心臓が跳ねる。
振り向くと、通路の入口にフミが立っていた。片手に端末、もう片手で軽く手を打っている。
「なにしてるの」
「何も」
「何もではないでしょ。いまの、誰に向けたの」
「鏡に」
「危ない人みたい」
フミは笑いながら近づいてきた。
「でも、ちょっとよかった」
「何がです」
「声」
イオルは鏡を倒しそうになって、慌てて支えた。
フミは棚の角にもたれ、さっきイオルが立っていた位置に視線を置いたまま言った。
「聞こえた。通路の向こうまで、すっと来た」
「たまたまです」
「たまたまでも、来るときは来る」
そこで、進行役の声が遠くから飛んだ。
「寝具コーナー、次いけますかー」
フミが返事をする前に、ディレクターらしき人物が通路をのぞき込んだ。三十代後半くらい、メダカ頭の男。髪は短く、首元のストラップに番組名が下がっている。目の動きが早い。見るというより、選んでいる目だった。
「今、誰かしゃべってた?」
「従業員です」
「ちょっと」
指をひとつ立て、男はイオルを見た。
それだけのことで、イオルの喉が急に乾いた。
「一回、棚の紹介してもらっていい?」
「え」
「そのままで。持ってる声、試したい」
フミが目を細めた。
ミナセが通路の角から半分だけ顔を出している。
イオルは鏡をそっと棚に戻した。
断る理由が思いつかなかった。受ける理由も、はっきりしていなかった。
ただ、さっき空気の中をまっすぐ滑っていった自分の声を、もう一度だけ確かめてみたいと思った。
カメラの前に立つ。
膝が少し浮く。
進行役が横で位置を示す。
「ここから入って、商品に触れて、三言くらいで」
「三言」
「四でも」
「曖昧ですね」
「大丈夫。雰囲気で」
周囲が笑った。
その笑いが、自分を責めていないのがわかる。わかるのに、肩の奥は硬いままだ。
照明が当たる。
売場が静かになる。
イオルは一度だけ唾を飲み、枕の角に指を添えた。
「湿り気を逃がしにくい素材で」
言葉が出た瞬間、空気が少し変わった。
さっきより、さらに前へ行く。
大きい声ではない。むしろ穏やかなままなのに、耳の近くへ運ばれていくような妙な届き方をしている。進行役が笑顔を崩さないまま目を見開き、ディレクターの指先が端末の停止位置で止まった。
「寝返りのときも、肌がつっぱりにくいです」
イオルは続けた。
「朝、起きたときに乾いた感じが残りにくいので、そういうのが苦手な方には、合うと思います」
終わった。
売場の空気が、半拍ぶん遅れて戻った。
ディレクターが最初に息を吐いた。
「いいじゃん」
「え」
「もう一回」
「はい」
「今度、カメラ見て」
二回目は、少しだけ目線を上げた。
三回目は、枕を抱える手の位置を変えた。
四回目には、進行役が横でうなずきすぎて、音声担当に肩を叩かれていた。
撮影が終わるころには、返品箱のことなんか誰も気にしていなかった。
売場の奥で、責任者が上機嫌に笑っている。
フミは腕を組んだまま、何も言わない。
ミナセは両手を握って小さく跳ねていた。
ディレクターが名刺を一枚差し出してくる。
「興味ある?」
「何にですか」
「オーディション」
紙は薄く、名刺の角は少し丸くなっていた。番組名の下に、別の事務所名が小さく記されている。
イオルはそれを受け取りながら、指先の熱が妙に強いことに気づいた。
「別に、すぐどうこうじゃないよ。軽いの。生活情報の補助枠とか、再現とか、商品紹介とか。そういうのから」
「自分、売場の人間なので」
「見ればわかる」
ディレクターは笑った。
「でも売場の人間にしては、抜ける」
その言い方が、褒め言葉なのか、職業上の判定なのか、イオルにはわからなかった。
ただ、胸の内側にしまいこんでいた一言が、名刺の紙を通してわずかに目を覚ました。
有名になれたら。
その夜、帰りの電車でイオルは名刺を何度も見た。
車窓には商業区の灯りが流れ、上層の回廊から伸びた広告がガラスに反射しては消えていく。今月の新人特集。今週の注目枠。朝に見たのと同じ種のタレントが、駅ごとに違う表情で貼られている。
同じ種なのに。
朝、後ろの二人が言っていた声がまた蘇った。
同じ種なのに、ぜんぜん違う。
イオルは窓に額を近づけた。
自分は何も違わないはずだった。
数が多いだけのウーパールーパー。
見慣れた輪郭。
売場で終わる感じ。
わかってしまう顔。
それなのに、今日だけは、空気のほうが先に道をあけた。
家は、種別混住型の古い集合住宅だった。
水辺に近い区画ではあるが、高湿度専用ではない。廊下の片側に水槽窓のある部屋、反対側に乾燥設備を強めた部屋、真ん中に共用の温度調整スペース。互いの暮らしを壊さないよう寄せ集めたようなつくりで、夜になると各部屋の調整音がかすかに重なる。
イオルの部屋は一階の角だった。
広くはない。玄関横に簡易の洗面台、小さな台所、折りたたみの机、低い寝台。壁には何も貼っていない。端末と充電器、洗濯途中の服、乾ききらないタオル、読みかけの雑誌が積まれた棚。その雑誌の表紙には、今売れている若手俳優が笑っている。
買ったのは先月だ。
特集が気になっただけ。
そう自分に言い訳して、そのまま捨てられずにいる。
靴を脱ぎ、上着を脱ぎ、流しの前に立つ。蛇口をひねると、少しぬるい水が出た。顔を洗う。外鰓の根元をやさしく押さえる。今日の照明の熱が、まだ少し残っている気がした。
机に名刺を置く。
その横に、雑誌を引き寄せる。
表紙の俳優はダックスフンド頭だ。短い脚を感じさせない角度で立ち、片手で椅子の背を持っている。記事の見出しには、昔から演じるのが好きだった、とある。
イオルは小さく鼻で笑った。
昔から。
そう言える人は強い。
自分には、そういう綺麗な線がない。気づいたら広告を見ていたとか、つい番組を最後まで流していたとか、鏡の前で一言だけ試していたとか、誰にも見せない薄い欲望の切れ端しかない。
端末が震えた。
フミからだった。
『行くの?』
それだけ。
イオルはしばらく画面を見た。
『軽いって言ってました』
送る。
すぐに返事が来る。
『軽い応募で人生変わるやつ、嫌いじゃない』
また震える。
『ミナセも、行けって』
間を置いて、もう一通。
『どうせなら、立ち方だけ練習しな』
イオルは思わず笑ってしまった。
笑った拍子に、喉の奥が少し熱くなった。
誰も本気にしていない軽口のようでいて、完全には冗談でもない。そういう距離で背中を押されるのが、いちばん困る。
部屋の真ん中に立つ。
机の向きを少し変え、姿見代わりになる古い収納扉の前へ行く。
照明は天井の丸い灯りひとつだけ。売場の光よりずっと頼りない。
それでも、立つ。
背筋を伸ばす。
顎を少し引く。
手を下ろす。
自然に。
自然に、と思った瞬間、肩が上がる。
イオルは肩を落とした。
「本日は」
声が、部屋の狭さにぶつかって戻ってくる。
売場で感じた伸びがない。
もう一度。
「本日は」
違う。
三度目。
「本日は」
また違う。
イオルは目を閉じた。
あの瞬間、何が起きていたのか思い出そうとする。棚の高さ、枕の重さ、照明の熱、通路の奥の気配、誰かが自分を見ている感じ。売場の空気が一瞬だけ、こちらにひらいた感覚。
ゆっくり息を吸う。
もう一度。
「湿り気を逃がしにくい素材で」
少しだけ、近づいた。
イオルは扉の中の自分を見た。
眠そうな目。
やわらかい口元。
冴えない輪郭。
それでも、いまはほんのわずかに、先がある顔をしている気がした。
翌日から、生活は何事もなかったように進んだ。
納品は来る。
箱は積まれる。
客は眠りに困り、乾燥に困り、似合う服の丈に困る。
イオルは棚を整え、試着室の札を裏返し、階段脇の床を拭き、迷子の子に共用案内を教えた。店の外では、今日もどこかで新しい変異が見つかり、誰かの進路が少し変わっているのだろう。
昼休み、休憩室の端末では情報番組が流れていた。
昨日の撮影分が、もう短く編集されて出ている。
ミナセが商品を手渡す横で、ほんの数秒、イオルの姿が映った。枕を持ち、カメラを見て、穏やかな声で短く説明する。テロップは控えめで、名前も出ない。ただ、画面の切り替わり直前、進行役がうなずく瞬間だけは、妙に印象に残った。
休憩室の別の席で、パートの誰かが言う。
「この人、店の人?」
「そうらしい」
「なんか落ち着くね」
別の誰かが言う。
「ウーパーって、映える人はほんと映えるよね」
「わかる。生活系の番組、合う顔」
イオルはスプーンを持つ手を止めた。
合う顔。
その言葉は、嬉しいのか、狭められているのか、うまく判断できなかった。
昼休みが終わるころ、ディレクターの名刺に記された番号から連絡が来た。
簡単な面談と、補助枠のオーディション。
日時は来週の午後。
私服で可。
難しいことはなし。
イオルは売場の裏口に立ち、端末の光を見つめたまま返事を打った。
親指が、送信の上で止まる。
そのとき、搬入口のほうから大きな笑い声が聞こえた。新しく入ったバイトが、荷物の持ち方を間違えたらしい。誰かが教え、誰かがまた笑い、すぐいつもの空気に戻る。
このままでも、生きていける。
戻る場所はある。
売場の通路も、湿度調整コーナーも、まかないのスープも、ミナセの笑い方も、フミの雑な言い方も、全部、知っている。
それでも。
イオルは、送信を押した。
その瞬間、端末の画面に自分の顔が薄く映り込む。
冴えない。
けれど、冴えないまま前へ出た顔だ。
仕事帰り、駅前の広場では小さな催しが開かれていた。
新規事務所の合同告知らしく、簡易の壇の上で数人が順番に挨拶している。客寄せの司会は明るい声のダックスフンド頭。横には物販の机、端には録画中の小型カメラ。足を止める人、止めない人、端末だけ向ける人。
イオルは人垣の外から眺めた。
壇の上の一人が、同じウーパールーパー頭だった。
体つきは細く、茶色の短い上着に、襟元の開いた服。外鰓はきれいに整えられ、頬の角度まで照明を計算しているように見える。笑うとき、顔全体ではなく目元だけを先にやわらげる。そのやり方がうまかった。
客の前に立つと、空気の密度が少し変わる。
何を言ったかより、立っている感じのほうが先に届く。
イオルは無意識に、自分の足の位置を見下ろしていた。
立ち方。
フミの言葉がまた浮かぶ。
壇の上のウーパールーパーが話し終える。拍手。司会が名前を呼ぶ。次の出演者が上がる。
そのあいだのわずかな沈黙に、イオルは自分の胸の鼓動をはっきり聞いた。
帰宅してから、また扉の前に立った。
今日は名刺ではなく、端末の前面カメラを起動する。画面の中の自分は少し顔色が悪く見える気がしたが、その言葉を頭の中で打ち消す。照明のせいだと思うことにする。
録画を押す。
姿勢を整える。
言葉を探す。
「はじめまして」
そこで止まった。
首を振る。
消す。
もう一回。
「はじめまして。イオルです」
自分の名を名乗るだけで、思っていた以上に照れが来る。
画面の中の自分は、普通だ。
普通すぎる。
けれど、何度か繰り返すうちに、普通の中にわずかな差が生まれる。目線の高さ、顎の角度、息を置く位置。ほんの数ミリの違いで、画面の向こうに届く感じが変わる。
イオルは気づけば、三十分以上も録画を続けていた。
どの映像も完璧ではない。
見返すと恥ずかしい。
消したくなる。
それでも、全部消す気にはなれなかった。
寝る前、床に座って雑誌を開く。
若手俳優の特集ページをめくる。役に入りすぎて食事を忘れるだとか、昔から人前に立つのが好きだっただとか、遠い場所の言葉が並ぶ。
イオルはページを閉じ、代わりに今日撮った自分の映像をもう一度再生した。
画面の中のウーパールーパーは、冴えない。
けれど、途中の一瞬だけ、何かが前に出ている。
大した何かではない。
まだ名前もない。
武器と呼ぶには弱い。
それでも、ある。
翌朝、目覚めたとき、部屋の空気は少し湿っていた。
共用調整が夜のうちに変わったのかもしれない。外鰓の先がいつもよりよく開いている気がする。鏡の前に立つ。寝癖もひどい。顔も同じ。何も変わっていない。
何も変わっていないのに、名刺が机の上にある。
通知欄には、来週の予定がひとつ増えている。
売場へ向かう途中、駅前の大型表示板にまた新しい変異速報が流れていた。
誰かの指先の熱伝導が少し速くなった。
誰かの記憶の定着が、眠りの直後だけ良くなった。
誰かの声が、必要な相手にだけ届きやすくなった。
イオルはその一文の前で立ち止まった。
人の流れが左右に割れる。
表示はすぐに次へ切り替わった。
必要な相手にだけ届きやすくなった。
ただの例文かもしれない。
まったく別の誰かの話かもしれない。
それでも、昨夜の録画と、売場の光と、通路の奥で止まったディレクターの指先が、ひとつの細い線でつながった気がした。
改札のガラスに映る自分を見る。
眠そうな目。
やわらかい口元。
冴えない輪郭。
その奥に、まだ小さいが、消えていないものがある。
有名になれたら。
今日のその一言は、いつもより少しだけ、逃げずに胸の内側へ残った。
電車が来る。
扉が開く。
人が流れ込む。
イオルも乗る。
いつもの朝だ。
それでも、昨日までと同じ朝ではなかった。
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