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蒼乃(キャラボ中〜!)
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第2話 武器の棚
朝の売場は、まだ目を覚ましきっていない顔をしていた。
開店前の二階。
照明はもう落ちていないのに、通路の奥には夜の湿り気が少し残り、値札の端や透明な仕切り板の縁が、やわらかく曇って見えた。天井近くの案内板には、種別対応衣料、生活補助小物、感覚補整用品と並んでいる。毎日見ている文字なのに、その朝はどれも、いつもよりはっきり目に入った。
イオルは脚立の上で、棚の端に新しい札を差し込んでいた。
指先に紙の角が当たる。
軽く痛い。
それだけのことで、眠気が少しだけ引いた。
今日から始まる特設コーナー。
通路の中ほど、季節用品と生活家電のあいだに作られた島棚が、昨夜の閉店後から少しずつ形を変えている。棚上にはまだ箱が積まれたままだが、見出しだけはもう立っていた。
変異を活かす仕事特集。
その文字を見た瞬間から、イオルは目をそらすことが増えた。
見れば気になる。
見なければ済む。
済むはずなのに、売場を横切るたび、どうしても視線が引っかかる。
棚の最上段には端末連動の短い紹介映像が流れるらしく、まだ準備段階の画面に、保護フィルム越しのぼんやりした店内が映っていた。そこに自分の姿が混じる。細い肩。制服の皺。ウーパールーパーの丸い頭。寝起きみたいな顔。
イオルは札を差し込み終え、脚立を降りた。
通路の端から、フミが箱を抱えて来る。
今日は帽子ではなく、髪を後ろでまとめていた。顔の輪郭がいつもよりきつく見える。制服の上から着た薄いベストの胸元には、臨時売場担当の札。忙しい日の顔だった。
「上、ずれてる」
言いながら、フミはイオルの差し込んだ札の端を指で押した。
「ここ、一ミリ出てる」
「一ミリ」
「見えるから」
「自分には見えないです」
「見える人が見るの」
フミは箱を床に置く。
中には細長いパッケージや小さな冊子がぎっしり詰まっていた。表紙には、笑顔のモデルたち。種も年齢もばらばらだが、全員が、何かしらの仕事道具を手にしている。
「これ、棚上の配布用」
「冊子まであるんですね」
「ある。店長が乗り気だから」
フミは冊子を一冊取り出し、イオルの胸元に押しつけた。
受け取る。
紙はつるりとしていて、角がまだ新しい。
表紙には、こんな文字が並んでいる。
わたしの変異は、こうして武器になった。
イオルはすぐ閉じた。
「読まないの」
「あとで」
「いま読んだほうがいい。朝のうちに中身把握して。客に聞かれる」
「聞かれますかね」
「聞かれる」
フミは棚の中段に箱を押し込みながら言った。
「こういうの、好きな人はじっくり読むし、嫌いな人は嫌いって顔するから」
「どっちですか」
「私は売れるならどっちでも」
その言い方に、イオルは少しだけ笑った。
フミの現実的なところは、時々ありがたかった。優しい言葉より、棚の位置を直す指先のほうが、ずっと信用できるときがある。
冊子を開く。
最初の見開きには、職業ごとの活用例が並んでいた。
会計時の手元の速さ。
細かな誤差を拾う視覚。
湿り気や乾き具合を測る皮膚感覚。
匂いの混じりを分ける鼻。
相手の声の揺れから体調変化を掴む耳。
仕事の写真といっしょに、小さなインタビューが載っている。
昔は普通だと思っていた。
ある日、向いていると言われた。
自分では気づかなかった。
そんな言葉が、どの頁にも似たような顔で座っていた。
イオルは頁をめくる指を止めた。
自分では気づかなかった。
そこだけ、やけに目に刺さる。
昨日の撮影。
あの売場の照明。
ディレクターの名刺。
軽い面談。
補助枠のオーディション。
まだ何も始まっていないのに、始まりかけたものの匂いだけが、通勤前からずっと体のどこかに引っかかっている。
「顔、暗い」
フミが言った。
「暗いですか」
「棚の前で読む顔じゃない」
「参考資料ですよね」
「参考にしたくない顔してる」
フミはそう言って、別の箱を開けた。
中から、卓上スタンドや伸縮式の仕切り、見本用の仕事道具模型が出てくる。棚はただ物を置く場所ではなく、そのまま、小さな人生見本市みたいなものになっていく。
開店十分前。
ミナセが遅れて二階へ上がってきた。
今日はいつもより少しだけ化粧が濃い。外鰓の先に沿うように薄く艶を乗せ、目元もくっきりしている。茶色の長袖ではなく、緑寄りの薄いニットに制服を重ねていて、同じ人なのに少しだけ別の場向きに見えた。
「見て」
「何を」
「これ」
ミナセは端末を差し出した。
画面には、昨日の店の撮影分を切り抜いた短い動画が映っている。イオルが枕を持って、カメラを見て話しているところだ。数秒。ほんの数秒なのに、何度も見返された痕跡が再生欄に残っていた。
「送られてきたんですか」
「店のグループに回ってきた」
「そんなものまで」
「ほら、ここ」
ミナセは音を少し上げた。
イオルの声が流れる。
穏やかなのに、離れた場所まで届いていく感じ。昨日、自分でも驚いたあの届き方が、今日聞いてもちゃんとある。
「いいよね」
「撮り方です」
「ちがう。声」
「また」
「またじゃないって」
ミナセは端末を引き戻しながら、にやりと笑った。
「売場だけで終わる感じ、昨日はなかった」
「昨日だけです」
「昨日だけでもあったなら、ないよりいいじゃん」
開店の音が鳴った。
客が入ってくる。
通路の空気が店の外と混ざる。
イオルは冊子を棚の定位置へ戻し、深く息を吸ってから、いつもの仕事に戻った。
午前中は、特設コーナーに人が流れた。
若い学生、仕事前のスーツ姿、親子連れ、端末でメモを取りながら立ち読みする者、何気ない顔で表紙だけ見て去る者。足を止める時間は短くても、そのたび棚の前に、見えない温度差みたいなものが生まれる。
「すごいな、これ。仕事に直結するやつ」
「うらやましい」
「自分のは地味だからなあ」
「でも地味なほうが長く使えるって聞くよ」
「そういう慰め方いや」
誰かの笑い。
誰かのため息。
言葉は棚の前に積もって、また剥がれていく。
イオルは近くでハンガーを直しながら、聞こえるものだけ聞いていた。
昼前、店長が二階へ来た。
イノシシ頭の大柄な男で、首が太く、声まで床を揺らすように響く。けれど動きは意外なほど細かく、価格札の角やサンプル配置の高さまで自分で確かめる癖があった。シャツの袖をひとつ折り、腕時計の位置がずれている。
「いいな。朝から人ついてる」
「はい」
「午後、実演あるからな。準備しておけよ」
店長の視線が、フミからミナセへ流れ、最後にイオルで止まった。
「おまえも」
「自分もですか」
「昨日、映ってたろ」
「少しだけです」
「少しでも映ったなら、売場側の人間だ」
店長はそう言うと、棚の上の小型画面を指で叩いた。
「今週は、物を売るだけじゃ弱い。物と人がどう繋がるかまで見せる」
「実演って何を」
「変異を仕事に変えた人間、呼んでる」
その言葉で、通路の奥の空気がまた変わった。
ミナセが目を丸くする。
フミが小さく舌打ちみたいな息をした。
「聞いてないです」
「さっき決まった」
「さっきで決まるんですか、そういうの」
「決まる。向こうの空き時間が今日だった」
店長は端末を見ながら続けた。
「同種の人もいる。ウーパールーパー」
「そうですか」
返事をしたのはイオルなのに、自分の声が少し遠く聞こえた。
店長はうなずいた。
「生活情報番組でよく出てる。知ってるだろ」
「たぶん」
「たぶんじゃなく見とけ。午後一で来るから。売場立ち位置、邪魔にならないように考えろ」
店長は言うだけ言って去っていった。
足音のあとに、しばらく通路のざわめきだけが残る。
ミナセが先に口を開いた。
「同種だって」
「そうみたいですね」
「嫌?」
「まだ来てないので」
「来る前から嫌そう」
イオルは答えなかった。
嫌という言葉に、ぴたりとはまる感じではない。
楽しみでもない。
怖い、に近いのかもしれない。
同じ種の成功例。
それは、励ましになるより先に、比較になる。
比較は静かだ。
静かなまま、足場を奪う。
昼休み。
社員食堂代わりの小さな休憩室で、イオルはいつものまかないスープを飲んでいた。紙容器のふちが少しふやけ、スプーンで混ぜるたび湯気が上がる。向かいではフミが端末をいじり、ミナセはパンの袋を開けている。
「名前、わかった」
ミナセが言って、画面を見せた。
イオルは視線を上げる。
端末には、生活情報番組の出演者一覧が開かれていた。料理、片付け、収納、住居導線、仕事道具紹介。いろいろな分野の専門枠の中に、見慣れない顔と見慣れた種が並んでいる。
そこにいた。
ウーパールーパー頭の男。
肩までの長さの髪を後ろでひとつに束ね、輪郭は細い。外鰓は短めに整えられ、服装はやりすぎない程度に洒落ている。薄い水色のシャツの上に、柔らかい茶色のジャケット。立ち姿が軽い。笑っていない写真なのに、人目を引く。
名前は、リクヤ。
職種欄には、生活変異活用アドバイザー、とある。
「知ってる?」
「見たことは」
「あるんだ」
「駅の広告で」
「そりゃ見るよね」
ミナセは少し笑ってから、画面を下へ送った。
プロフィール欄。
日常の小さな変異を仕事へ変える提案で人気。
個人相談から番組出演まで幅広く活動。
同種に多い身体特性を活かした、生活環境との相性分析が強み。
イオルはスプーンを置いた。
「すごいですね」
「すごいね」
ミナセは素直に言った。
フミは端末から目を離さず、鼻先だけでうなずく。
「人気あるの、わかる顔してる」
「顔ですか」
「顔も。立ち方も、しゃべり方も、全部込み」
「また立ち方」
「大事だから」
フミはようやく顔を上げた。
「同じ種だからって、同じ棚に置けるわけじゃないでしょ」
「棚」
「売場も、人も」
その言い方が妙に残った。
同じ棚に置けるわけじゃない。
イオルはスープの表面を見た。
湯気の向こうで、自分の輪郭が曖昧に揺れている。
午後一時過ぎ。
売場はいつもより人が多かった。
実演の告知が店内放送で流れ、特設コーナー前の通路には簡易の仕切りが置かれ、棚の横に小さな丸台が設置された。商品紹介用の画面も起動し、紹介映像が音なしで繰り返されている。
イオルは少し離れた位置で、補充用の小物箱を持ったまま立っていた。
フミは通路整理。
ミナセは配布冊子の補充。
店長は、なぜか自分で前方の立ち位置確認をしている。
遠くから、人の流れが少しだけ変わる。
足を止める気配が連鎖して、通路の奥の空気が開く。
その先から、リクヤが現れた。
写真よりも背が高く見えた。
実際の身長というより、立っている時の重心の置き方がそう見せるのだろうと、イオルは思った。肩の力が抜けているのに、輪郭だけは崩れない。外鰓の先には軽く整髪料の艶。目元はやさしいが、視線の置き方がうまい。相手ひとりひとりを見ているふうでいて、場全体をまとめて掴んでいる。
服は柔らかな茶色のジャケットに、襟元を少し開けた薄い緑のシャツ。細身のパンツ。靴まで軽い。やりすぎていないのに、売場の照明に合う。
店長が大きな声で迎えた。
「どうもどうも」
「今日はありがとうございます」
「こちらこそ。助かります」
「すでにいい棚ですね」
リクヤの声は低すぎず、高すぎず、よく通った。押しつけがないのに、耳に引っかかる。昨日、自分の声に感じたあの伸びとは種類が違う。もっと慣れていて、磨かれていて、迷いがない。
客の視線が集まる。
自然に。
嫌味なく。
イオルは小物箱を抱える手に少し力を込めた。
実演が始まる。
店長の挨拶は短かった。
すぐにリクヤへ渡す。
リクヤは丸台の横に立ち、棚の見出しを一度見上げてから、客へ向き直った。
「変異っていうと、すごく派手なものを想像する方も多いと思うんですけど」
その一言で、通路のざわめきが薄くなる。
「実際には、朝の支度が少し速いとか、乾きやすいものがわかるとか、声の変化に気づきやすいとか、そういう小さなもののほうが多いです」
客たちがうなずく。
「でも、小さいから使えない、ではないんですよね」
リクヤは棚上の冊子を一冊取り、指先で軽く振った。
「小さいものほど、毎日の中に入りやすい。毎日の中に入るものは、仕事に変わりやすいです」
イオルは、気づくと呼吸を浅くしていた。
言っていることは、冊子にも書いてあった。
けれど、本人の口から出ると、ただの印刷とは違う厚みを持つ。言葉の選び方だけではない。顔の向け方、間の置き方、冊子を持ち上げる高さ、そういうもの全部で伝えている。
客のひとりが手を挙げた。
「地味な変異でも、仕事になるんですか」
「なります」
即答だった。
「地味かどうかは、使う場所の問題です。たとえば、同じ湿り気の感じ方でも、寝具売場で役立つ人もいれば、食品で役立つ人もいます。大事なのは、変異そのものより、どこへ置くかです」
どこへ置くか。
また棚の言葉だった。
イオルは無意識に、自分の足元を見た。
売場の床。
磨かれた通路。
補充用の箱。
自分はいま、ここに置かれている。
それは間違っていない。
たぶん。
たぶん、間違っていない。
実演は、質疑へ移った。
相談例。
仕事選び。
環境づくり。
自宅でできる整え方。
リクヤは質問を受けるたび、相手の顔を見て、少しだけ言い方を変えた。年上には落ち着いた言葉、若い客には少しやわらかい言い回し。子どもにはしゃがんで目線を合わせる。どの場面も不自然ではなく、やりすぎにも見えない。
イオルは途中から、話の内容より、話している姿そのものを見ていた。
同じ種なのに。
朝の電車で聞いた言葉が、また戻ってくる。
同じ種なのに、ぜんぜん違う。
リクヤの体は、売場の中で輪郭を失わない。
イオルは、ときどき輪郭ごと棚に吸われて消える。
その違いが、今日はやけに見えた。
実演の終盤。
店長が何を思ったのか、突然こちらを見た。
「この売場の従業員にも、実際に商品紹介してもらったんですよ」
イオルの背中が冷える。
店長が手で招く。
「イオル」
客の何人かが振り向く。
ミナセが息をのむのがわかる。
フミは眉ひとつ動かさない。
逃げるほどの距離はない。
イオルは小物箱を棚の下へ置き、歩き出した。
足裏が少しだけ重い。
丸台の横に立つ。
照明が近い。
リクヤが横を見る。
その目は、番組の画面越しよりずっと静かだった。
「昨日、商品紹介してくれてね。よかったんですよ」
店長が言う。
やめてほしいと思った。
けれど、いまさら顔に出せない。
イオルは客のほうを見た。
知らない顔。
見ている目。
期待と、ついでの好奇心。
それらが混ざっている。
「ひとこと、いける?」
店長の声。
断れば終わる。
たぶん終わる。
でも、何が終わるのかは、よくわからない。
イオルは棚上から、保湿枕の見本を取った。
昨日と同じ重さ。
昨日と同じ形。
違うのは、隣に立っているのがリクヤだということだけ。
「湿り気を逃がしにくい素材で」
口を開いた瞬間、客の何人かがこちらを見直した。
昨日と同じだ。
声が、前へ行く。
静かなまま届く。
イオルは続ける。
「朝、起きたときに乾いた感じが残りにくいので、そういうのが気になる方には、合いやすいと思います」
終える。
短い沈黙。
客の中で、小さなうなずきがいくつか起こる。
店長が嬉しそうに頷く。
ミナセが胸の前で手を握っている。
リクヤだけが、ほんの少し首を傾けていた。
その表情が、イオルにはいちばん刺さった。
驚きではない。
見つけた、という顔でもない。
もっと静かな、確かめる顔。
「きれいな届き方しますね」
リクヤが言った。
客に向けた言葉ではなく、横に立つイオルへ落とした声だった。
イオルは目を瞬かせる。
「え」
「声」
「ありがとうございます」
「普段から使ってます?」
「売場で少し」
「少し」
リクヤは微笑んだ。
それ以上は言わない。
けれど、その一言だけで、イオルの喉の奥に何かが残った。
実演が終わる。
拍手。
冊子を取っていく客。
商品を持っていく客。
相談待ちの列。
店長は満足そうに通路を見回し、フミに何か指示を飛ばしている。ミナセは笑顔で客対応に戻った。
イオルは丸台の脇を離れようとした。
そのとき、リクヤに呼び止められる。
「少しだけ、いいですか」
「はい」
「裏じゃなくて、ここで」
売場の端。
客の流れから半歩だけずれた場所。
リクヤは冊子を一冊手に持ったまま、イオルを見た。
近くで見ると、写真や壇上で感じたより、もっと細かな調整が入っている顔だった。目元の疲れをうまく隠し、口角の角度も少しだけ計算されている。自然に見えるよう整えた自然。そういう顔。
「昨日の映像、少し見ました」
「もう見たんですか」
「送られてきたので」
リクヤは冊子の角を親指でなぞった。
「自分ではどう思いました」
「何がですか」
「いまの声」
「わかりません」
「わからないですか」
「たまたま、通るときがあるだけです」
リクヤはそこで笑わなかった。
「たまたまで、毎回同じところに落ちる人は少ないです」
「でも、自分は」
「まだ整ってないだけだと思います」
その言葉が、すぐには飲み込めなかった。
整ってない。
まだ。
まだ、という言葉を向けられる側に自分がいるとは思っていなかった。
リクヤは続ける。
「仕事に変わる変異って、派手なものだけじゃないです。むしろ、地味で説明しづらいもののほうが、気づかれずに埋もれます」
「……」
「だから、見つけてもらうしかない」
イオルは返事ができなかった。
見つけてもらう。
それは昨日、ディレクターに名刺を渡されたときから、どこかで始まっていたのかもしれない。
でも、見つけられる側に立つのは、思っていたより落ち着かない。
リクヤは冊子を閉じた。
「今度、面談か何かあります?」
「なんで」
「顔に書いてあります」
「そんなに」
「少し」
その言い方に、ようやくイオルは少しだけ息を吐いた。
「軽いオーディションが」
「行くんですね」
「たぶん」
「なら、変にうまくやろうとしないほうがいいです」
「でも、うまくやったほうが」
「うまく見せようとすると、消えるタイプに見える」
その言葉に、イオルは顔を上げた。
消える。
ひどく正確な言い方だった。
自分でも気づいていた。
鏡の前で何かを作ろうとすると、急に薄くなる。自然に、と思えば思うほど、輪郭が棚の奥へ引っ込んでいく。
リクヤは小さくうなずいた。
「そのままのときに、前へ行く感じがあるなら、たぶんそこです」
「そこ」
「武器の置き場所」
客に呼ばれ、リクヤは会話を切った。
会釈をひとつ残して、すぐに別の誰かの前へ行く。
切り替えが早い。
その背中を見ながら、イオルはしばらく動けなかった。
武器の置き場所。
その言葉だけが、売場のざわめきの中でも妙にはっきり残った。
夕方近く。
特設コーナーの人波は落ち着いたが、棚の前の空気だけはまだ熱を持っていた。冊子はずいぶん減り、見本商品もいくつか売れ、相談用の付箋が端末に何枚も残っている。
イオルは三階への補充を終え、二階へ戻る途中、休憩用の小さな自販前で足を止めた。
水を買う。
冷えすぎていないやつ。
取り出し口から拾い上げたとき、横に人が立った。
リクヤだった。
ジャケットを脱ぎ、腕にかけている。シャツの袖をまくった腕は思っていたより細く、手首の筋だけが少し浮いていた。壇上では見えなかった疲れが、横顔に薄く乗っている。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
自販の前でふたり並ぶ。
少しだけ変な光景だと思った。
同じ種。
同じ頭。
でも、隣に立つと、自分の輪郭が急に野暮ったく感じる。
リクヤが缶を開ける。
小さな音。
「緊張しました?」
「しました」
「してるようには見えなかった」
「してました」
「そういうとこ、いいですね」
イオルは返事に困った。
褒められているのか、観察されているのか、まだ区別がつかない。
「自分、昔はもっと消えてたんです」
リクヤが言った。
イオルは思わず顔を向けた。
「想像できません」
「よく言われます」
「ほんとに」
「ほんとです」
リクヤは缶の縁に指を添えたまま、遠くの通路を見た。
「同種、多いじゃないですか」
「はい」
「多い種って、親しみやすい反面、埋もれやすいんですよね」
「……」
「似た印象の人が多いから。気を抜くと、すぐ棚に戻される」
イオルは何も言えなかった。
それは、自分が毎日うっすら感じていたことそのままだった。
リクヤは続ける。
「だから、自分で置き場を選ぶまでが大変でした」
「どうやって」
「いろいろ失敗しました」
少し笑う。
その笑いは画面で見るより疲れていた。
「喋りすぎたり、作りすぎたり、逆に地味にしすぎたり。たぶん、全部通る道です」
「通りたくない道ですね」
「通らない人もいるかもしれないですけど、通ったほうが見えることもあります」
イオルは缶の水を一口飲んだ。
冷たすぎない。
ちょうどいい温度なのに、喉を通るときだけ少し痛い。
「自分には、まだ何もないと思ってました」
「いまも?」
「……はい」
「じゃあ、あるかないかじゃなくて、どこまで自分で信じられるか、かもしれないですね」
リクヤはそう言って缶を軽く振った。
中身はもうほとんど残っていないのか、音が浅い。
「人に見つけてもらう前に、自分で雑に扱わないことです」
「雑に」
「自分の出る感じを、たまたまで済ませない」
その言葉が、やわらかいくせに痛かった。
イオルは昨日からずっと、たまたま、という言葉に逃げていた。
たまたま声が通った。
たまたま撮ってもらえた。
たまたま名刺をもらった。
たまたま同種の成功例に会った。
たまたま、たまたま、たまたま。
そう言っていれば、期待しなくて済む。
期待しなければ、落ちても浅くて済む。
でも、その浅さのままでは、どこにも届かない。
リクヤは空になった缶を自販横の回収口へ入れた。
「面談、楽しんできてください」
「楽しむ、ですか」
「怖くても、そのまま出たほうが見えることあります」
去り際、リクヤは振り返りもしないまま片手を上げた。
軽い動き。
それだけで、通路を横切る誰かの目が自然と追う。
イオルはその背中が見えなくなるまで、しばらく立っていた。
閉店後。
特設コーナーは少し乱れていた。
冊子の欠けた列。
ずれた仕切り。
触られた跡の残る見本。
人が集まった場所だけが持つ熱の名残。
イオルは棚の中段を整えながら、今日聞いた言葉を頭の中で並べ直していた。
どこへ置くか。
見つけてもらう。
消えるタイプ。
武器の置き場所。
たまたまで済ませない。
フミが横で、売れ残りの見本を箱へ戻している。
「どうだった」
「何がです」
「同種の人」
イオルは少し間を置いた。
「ちゃんとしてました」
「ちゃんと、ね」
「ちゃんとしてる以外の言い方が見つからないです」
「わかる」
フミは見本用の小物をひとつ持ち上げて、向きを揃えた。
「比べた?」
「比べますよ」
「そうだろうね」
その言い方に慰めはなかった。
けれど、妙に助かった。
フミは続ける。
「でも、比べて潰れるだけなら見なかったことにすればいいし、見たほうが動けるなら見ればいい」
「簡単に言いますね」
「簡単なことしか言ってないから」
フミは箱を閉じた。
「自分には何もない、って顔してる人、だいたい何かあるよ」
「雑ですね」
「雑でいいの。最初は」
イオルは棚の端の冊子を一冊抜き取った。
配布用ではなく、見本用。
表紙のモデルたちがこちらを見る。
武器にした人々の顔。
その中に、自分の顔が並ぶことはまだ想像できない。
でも、想像できないことと、起こらないことは、同じではないのかもしれなかった。
帰り道、駅前の広告が切り替わっていた。
大型画面に、新しい生活特集の予告が流れる。整理収納、湿度対策、働く道具、声の使い方。ほんの数秒ごとに別の顔が映る。ダックスフンド、メダカ、ウーパールーパー、他の種。
その中に、今日見たリクヤもいた。
角度のいい笑顔。
肩の抜けた立ち姿。
画面の向こうの人。
イオルは立ち止まって、それを見上げた。
通行人が横をすり抜けていく。
誰かが端末を見ながら歩く。
誰かが連れと笑う。
駅前の光は、誰かひとりのために止まらない。
それでも、画面の中の同種を見ていると、胸の奥に小さな熱が溜まる。
憧れと、悔しさと、少しだけの恐れ。
どれも似た顔をしていて、まだうまく名前がつけられない。
電車の窓に映る自分を見る。
今日の顔は、朝より少しだけ疲れていた。
でも、疲れているだけではない。
何かを見たあとの顔をしている。
部屋に戻って、制服を脱ぎ、机に冊子を置く。
名刺の横だ。
ディレクターの名刺。
今日持ち帰った冊子。
並べてみると、紙の厚みが少し違う。
イオルは椅子に座り、端末の前面カメラを起動した。
今日は姿見の扉ではなく、画面の中の自分を見た。
「はじめまして」
言う。
少し置く。
「イオルです」
昨日より、ほんの少しだけ声が落ち着いている。
たぶん。
いや、たぶんではなく、昨日よりは、そうだ。
イオルは録画を止めずに続けた。
「売場の仕事をしています」
そこまで言って、首を振る。
違う気がした。
消す。
もう一度。
「イオルです」
それだけを、何度も言う。
名乗るたび、自分の輪郭が少しずつ変わる。うまくなるわけではない。ただ、雑に扱わない感じだけが、わずかに増える。
リクヤの言葉が蘇る。
たまたまで済ませない。
イオルは録画を見返した。
ひどいものもある。
途中で目が泳いでいるもの。
声が細くなるもの。
逆に作りすぎているもの。
けれど、その中に、いくつかだけ、ふっと前へ出る瞬間がある。
鏡の前で一人で喋っているだけなのに、相手がいるみたいに届く瞬間。
それを見つけるたび、胸のどこかが浅く震えた。
机の上の冊子を開く。
職業写真。
変異の活かし方。
インタビュー。
その中に、今日会ったリクヤの頁もあった。
画面で見た写真と違い、印刷の中の彼は少し若く見える。今より輪郭が固く、笑い方もどこかぎこちない。目元に、うまくいかなかった日々の名残みたいなものが、まだ少しだけ残っている。
イオルは頁の端に触れた。
昔はもっと消えてたんです。
その言葉が、印刷の向こうからもう一度聞こえる気がした。
夜は長くなかった。
気づくと時計の数字がかなり進んでいて、部屋の湿り気も少し変わっていた。共用調整の低い駆動音が壁越しに響く。イオルは端末を閉じ、椅子にもたれた。
自分には何もない。
朝から何度も思った。
同種の成功例を見せられるたび、その思いは強くなった。
でも、何もないと言い切るには、昨日の声も、今日の視線も、面談の予定も、机の上に残りすぎている。
何もない人の机には、たぶんこんなふうに紙が増えない。
名刺。
冊子。
録画の残った端末。
小さな証拠ばかりだ。
武器と呼ぶには弱い。
でも、弱いまま積もるものがある。
寝台に横になる。
天井を見上げる。
静かな部屋。
静かな夜。
なのに、胸の奥だけ少し騒がしい。
同じ種なのに、ぜんぜん違う。
その言葉はまだ痛い。
でも、痛いだけでは終わらなくなっていた。
朝。
目覚ましより少し早く起きた。
寝癖のついたまま洗面台へ行き、水で顔を整える。鏡の中のウーパールーパーは相変わらず冴えない。けれど、冴えない顔の下に、昨日までなかった小さな張りがある。
机の上の冊子に手を置く。
その隣の名刺に触れる。
面談は、明後日だ。
まだ先。
もうすぐ。
その中間みたいな距離。
通勤路。
駅前の大型表示板には、今日も新しい変異速報が流れていた。
細かい温度差に気づきやすくなった。
言い淀みの前に呼吸の乱れを拾えるようになった。
布の重さから中身の偏りを感じやすくなった。
毎日、何かが生まれている。
毎日、何かが誰かの仕事になる。
イオルは表示板の前で立ち止まらず、そのまま歩いた。
胸の中で、昨日の言葉が静かに並ぶ。
どこへ置くか。
見つけてもらう。
雑に扱わない。
そしてもうひとつ。
自分には何もない、と思っていたその場所に、まだ名前のつかない何かが、ちゃんと残っていること。
改札のガラスに映る自分を見る。
眠そうな目。
やわらかい口元。
冴えない輪郭。
その奥で、前へ出ようとするものが、昨日よりほんの少しだけはっきりしていた。