コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夜の図工室には、ひんやりとした空気が溜まっていた。
藤本はるとは、ほとんど無意識のうちに足を踏み入れていた。
机の上には誰かが描き残した一枚の絵――淡い青に染められた少女の横顔。
その瞳はどこか懐かしく、けれど胸を刺すほどの寂しさを帯びている。
カサッ、と背後で音がした。
「はると……? やっぱりここにいた」
結城るながドアの隙間から顔を覗かせ、続いて金沢かりんが顔を出した。
「ここ、夜は入っちゃいけないんだよ? また“青い子”に呪われるって――」
かりんが半分冗談めかして言ったその言葉に、はるとの胸がわずかに痛む。
“青い子”。
校内で囁かれる噂。
夜の図工室に残された青い落書きは、見る者の夢に現れて泣き声を響かせるという。
はるとは、机の上の絵にそっと指を伸ばした。
指先に冷たい感触――そして、耳元でかすかな囁きが聞こえた気がした。
――どうして、忘れたの。
はるとは思わず息を呑む。
この声を、自分は知っている。
でも、それはありえないはずだった。
死んだはずの姉の声に、どこか似ていたから――。
翌日の放課後。
藤本はるとは図工室の青い絵のことを頭から離せずにいた。
結城るなと金沢かりんも同じ気持ちだったらしく、三人は誰に誘われるでもなく再びあの部屋へと足を向けた。
窓から差し込む夕陽に照らされた図工室は、昼間でさえ薄暗く、机に残された“青い子”の横顔がどこか生き物めいて見える。
「やっぱり、あの絵だけ雰囲気が違うよね」
かりんが眉をひそめる。
「昨日、はるとが言ってた声……本当に聞こえたの?」
るなが問いかける。
はるとは小さく頷いた。
「……姉さんの声に、似てた」
その一言に、二人の表情が強ばる。
姉――藤本みな。はるとの二つ上の姉は、一年前に病気で亡くなった。
青い落書きと姉の声。
偶然で済ませるには、あまりにも胸がざわつく。
「放っておけないよ」
るなが机に手を置き、青い絵を見つめる。
「この絵、誰が描いたか調べてみよう」
はるとは無言で頷いた。
青い子の噂の裏に、姉が残した何かが隠されている――
そんな確信が、静かに心の奥で膨らんでいった。
三人は図工室の奥にある資料棚を探し始めた。
ほこりをかぶった画材の中から、るなが一冊のスケッチブックを見つける。
表紙には、見覚えのある文字――“みな”とサインが残されていた。
ページをめくると、そこには青を基調にした人物画が並んでいる。
そのどれもが、悲しげに目を伏せた少女ばかり。
「これ……姉さんの、だ」
はるとの声が震える。
最後のページには、例の横顔の少女が描かれ、薄く“忘れないで”と走り書きが残されていた。
「呪いじゃない……呼んでるんだ」
かりんが呟く。
その瞬間、部屋の奥で窓が勝手に開き、風がスケッチブックをめくった。
――どうして。
あの夜と同じ囁きが、三人の耳をかすめた。
日を追うごとに、はるとの夢には青い子が現れるようになった。
夢の中の少女は顔を隠しながら、ただ一言だけを繰り返す。
――思い出して。
はるとは徐々に、その声が確かに姉のみなのものだと確信する。
一方、るなとかりんも異変を感じていた。
青い絵を見た夜は必ず、姉にまつわる記憶が頭に浮かぶのだ。
幼い頃、三人で遊んだ放課後。
まだ元気だった頃のみなが、青い絵の具で空を塗っていた記憶。
「姉さんが残したメッセージ……私たちに何を伝えたいんだろう」
はるとは拳を握る。
三人は、みなが最期を過ごした病室を訪れる決意を固めた。
病院を訪れた三人は、看護師からみなの遺品を受け取る。
それは小さな色鉛筆の箱だった。
中には、ほとんど使われた形跡のない“青”だけが削り減っていた。
箱の底には、小さなメモが一枚。
――わたしは消えても、青い空はみんなの中にある。
涙が頬をつたう。
みなが最後まで描こうとしたもの。
それは呪いなどではなく、彼女自身の“願い”だった。
学校に戻った三人は、図工室で改めて青い子の絵を見つめた。
すると、絵の中の少女がほんの少し笑ったように見えた。
「ありがとう、見つけてくれて」
はるとの耳に、たしかに姉の声が届く。
青い子の正体は、姉みなが最後に描いた“未来の自分”。
それは弟に生きてほしいという祈りと、忘れないでという願いが形になったものだった。
卒業式の日。
はるとはるな、かりんの三人は校庭に立ち、澄み渡る青空を見上げていた。
あの日の青い絵の少女はもう、図工室から消えていた。
スケッチブックには、みなのサインだけが静かに残されている。
「姉さん、見てるかな」
はるとの言葉に、るなとかりんが微笑む。
「もちろん。私たちの中に、ずっと」
青い子の呪いは――願いへと変わった。
空を染める春の青は、もう恐ろしい色ではなく、未来へと続く希望の色だった。