テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
1899年、ロンドン。
エリス・ルーヴェルは、自分のことを何一つ思い出せなかった。
「……帰る場所に迷わないの、羨ましい」
雑踏の中、小さな声で言った。
キングス・クロスはロンドンで最も乗降者数の多い駅だ。これだけの人ごみなら、自分と同じ、途方に暮れている誰かがいないかと見渡してみる――いない。行き交う人々の靴音はせわしなく、止むことがない。
石の柱に背を預ける。蒸気機関車の白煙が天井に溜まり、視界を鈍く曇らせている。鉄と油の匂い。怒号と呼び声。
エリスは、外套の内ポケットに手を入れた。
入っているのは、一枚のメモだけだ。
整った筆記体で名前が記されている。
「……アルバート、ヴェイン」
裏面には、簡単な地図が描かれていた。
「アルバート、アルバ、アル……うーん」
口にしても、しっくりこない。
呼び慣れた感触が、身体に染みついている気配はなさそうだ。
「……他人なのかな? ホント、誰なんだろ?」
名刺を眺め、数時間前の記憶を呼び起こす。
*
『貴方は健康です。お帰りください』
見知らぬ病院で目覚めたエリスは、医者にそう告げられた。
『……病院で目覚めて、記憶喪失で、何もないはずないでしょ』
『ヴェイン卿から費用を受け取り、精密検査もしました。身体に異常はありません。解離性健忘の症状が気になるなら、精神科へどうぞ』
『ヴェインって誰?』
『会えばわかることを、何故私に訊くんです?』
そう言って、医者はエリスのメモを目で指した。
結局エリスは夜を待たずして病院を追い出された。間違いなく、医療倫理に反したと行為に思う。あの不愛想なお医者様には、ぜひとも免許剥奪されてほしい。
*
駅の外へ出る。
夕暮れのロンドンは、煤けた色をしていた。ガス灯が灯り始め、霧が低く垂れ込めている。新聞売りの少年の声が響く。
「号外! 奪魂鬼が出た!」
奪魂鬼。
世間を騒がせている怪異だ。
五年前、世界中で人間が黒い靄を纏うバケモノに変異する現象が確認された。人を殺して喰うようになった彼らを、人々は奪魂鬼と呼んだ。
敵国の新兵器だの未知の感染症だの呪いだの、数多の憶測が行き交ったが、原因は不明だ。人々はみな、自分や隣人が奪魂鬼に化けやしないかと怯えている。
そして、彼らがイスラム世界の伝承にある屍食鬼と区別され、奪魂鬼と名が与えられたのは、所以がある。
彼らは人の魂――精神に干渉する。
喰った人間から、記憶を奪うのだ。
「自分のこと以外は、ちゃんと覚えてるのになあ……」
エリスがボソリと言った、その瞬間。
群衆の中に、悲鳴が上がった。
浮浪者らしい若い男が両手で頭を抱え、うずくまっていた。
「おい、大丈夫か?」
近くにいた警官二人が声をかける。
浮浪者風の若者は答えず、警官たちの胸に長い爪を突き立てた。
「は?」
心臓を貫かれ、警官たちが崩れ落ちる。
人ならざる者に化けた自身の手を見つめ、若者は苦しげに呻いた。
「……俺は……誰だ?」
次の瞬間。
男の皮膚が、ひび割れた。
ひびは顔へ、首へ、手足へと縦横無尽に広がり――一斉に裂けていく。
裂け目から、黒い靄が溢れ出る。
「鬼化だ! 逃げろ! 奪魂鬼が出た!」
男の足元で、警官二人の死体が黒く炭化し、崩れ落ちる。
塵となった彼らの亡骸は小さな竜巻に巻き上げられ、奪魂鬼の口に吸い込まれた。
死骸を喰った。
ゆらりと揺れたかと思うと、次の瞬間、怪物は地面を蹴っていた。
速い。
無駄のない動きで人々の間をすり抜け、立ち止まる。数刻遅れて、怪物の通り道にいた人々の首がボトリと落ちた。
「鬼狩りはまだかッ! もう人間じゃ相手出来ねえッ!」
群衆の誰かが叫んだ。
奪魂鬼は人を喰うことで記憶を奪う。
ここで言う記憶は、一般的な知識はもちろん、ナイフや銃を扱った経験、武術の心得も含まれる。
訓練を受けた警官二人を喰った時点で、奪魂鬼の動きは常人のそれを越えていた。
また一人、また一人と、逃げ遅れた人々が首を刈られる。
奪魂鬼が死骸を吸い、動きはキレを増していく。
エリスも、逃げなければならない。
頭では分かっている。
だが、足が動かない。
奪魂鬼こちらを向く。
一瞬で距離を詰め、エリスの首筋に爪を伸ばす。
そのとき、視界の端で何かが動いた。
黒だ。
それだけが、はっきり見えた。
次の瞬間、エリスの身体が後ろへと引き寄せられる。
黒い外套の男が、エリスを抱き寄せていた。
目の前を、刃が走る。
奪魂鬼の腕が、切り飛ばされた。
即座に体制を直そうとする怪物。
その顔面に、男が投げた長剣が突き刺さっていた。
「……ヴぁッ?」
一瞬の断末魔の後、靄を纏う黒の身体が、灰のように散る。
静寂。
男は、何事もなかったかのように剣を拾った。
その横顔が見える。
整った顔立ち。冷たい瞳。
エリスは、はっとして聞いた。
「……アルバート、ヴェイン?」
男は、小さく頷いた。
記憶は何も戻っていない。
でも今度は、呼び慣れた感触が、唇に残っていた。
#ハッピーエンド
434
コメント
1件
ああ、一部の読者からの声が聞こえます。 嘘やろお前マジでやんの?、と。