テラーノベル
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教室の扉を開ける瞬間、遥の指はふるえていた。
“何も起きない”わけがないと知っている。
だが、それでも教室に入るしかない。立ち止まっていると廊下の後ろから人の気配がにじってくるから。
席に着くと同時に、笑い声が耳の奥をかきむしった。
「昨日のさー、マジでやばかったよね」
「ガチ泣き。いや、引いたわ逆に」
「声、裏返ってた。犬みたいだったもん」
教室のどこにも遥の“居場所”はない。机の上には、何か黒い液体がぶちまけられている。濡れた教科書。ノートは破られ、コンパスの針が刺さったまま開かれていた。
カバンの中の着替えまで、バラされて窓際にぶら下げられている。女子たちの笑いは、一線を越えた。
「うちの弟が言ってたー、あの子“壊れてる”って」
男子が後ろから椅子を蹴る。机の下で靴が踏みつけてくる。教科書を拾おうとすれば、女子がつま先で突き飛ばす。
「ねえ、昨日の続きやってくれないの? 泣くとこ。あ、ていうかまた泣かせたらいいんじゃない?」
何人かがスマホを掲げた。録画。あからさまに。
「ちょっとさ、見せて。どこまでされたら泣くの? 興味あるんだけど」
「こういうの、下とか触れば速攻だよ。どうせ誰も見てないし」
遥の腕が掴まれ、背後から羽交い締めにされる。
それを止める教師はいない。教室の外から、誰かが笑いながら「やりすぎんなよ〜」と声をかける。
昼休み、保健室に逃げようとした遥を、二年生の女子が呼び止める。
「ねえ、昨日“泣いた”ってほんと? そういうの、男の子の前でやったら引かれるよ?」
「どうせさ、何されたって嬉しいんでしょ? 被害者ぶってるくせに」
口元に貼りつく作り笑い。爪の先で顎をつままれた。
「ちゃんと笑いなよ。ほら、そう。偉いね」
――ここでも、もう逃げられない。
放課後。昇降口で、靴が消えていた。代わりに突っ込まれていたのは汚れた体操服。
中には、ねばついた液体。男子たちが笑っている。
「本番の予行練習だってさ」
どこへ向かっても、誰に何を言っても、遥の“存在”は、“被虐”として消費されるだけだった。
まるで、意思も、反抗も、心も、“最初からなかった”みたいに。
家に帰っても、弟が笑いながら聞いてくる。
「また泣いたの? ほんと、おまえってさぁ……かわいそ」
義母は何も言わない。視線すらよこさない。ただ茶をすする音だけが、日常の“音”として空間を支配していた。
夜、布団の中。耳を塞いでも、鼓膜の内側で誰かの声が繰り返される。
「泣いて」「壊れて」「喜べよ」
遥の呼吸は浅く、細くなっていく。
“願う”ことすら、許されない。
“死にたい”と思うことさえ、誰かのネタになる。
逃げ場なんて、どこにもない。
泣き声を漏らすことさえ、もう奪われた。
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