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朝。教室の空気はぬるい膿のように張り付いていた。ドアを開けた瞬間、無数の目がこちらを向いた気がしたが、すぐに全員が視線を逸らした。けれど、確かに誰かが笑った。
鞄を下ろそうとした瞬間、それはなかった。机の上に置いてあったはずの私物が一掃されていて、机の上にはただ紙切れ一枚だけが置かれていた。
「お前の持ち物、”女子トイレ”にあるよ。どこの個室かは当ててね」
指の先が震えた。けれど、それに気づかれるのが怖くて、唇を噛んで笑うふりをした。演技のつもりだったが、誰にも見られていないふりをされていた。
廊下に出ると、別の学年の生徒がすれ違いざまにわざと肩をぶつけてきた。
「おい、“あの動画”の声、マジお前だろ?」
足が止まりそうになる。
知らない。知らない。でも、たぶん、知ってる。
昼休み、体育倉庫の裏に呼び出される。教師には「保健室で具合が悪いと言っておけ」と誰かが言っていた。反論する隙など、あるはずがない。
言葉の端々に、明確な“構図”が刻まれている。
誰が支配者で、誰が奴隷か。
誰が見ていて、誰が記録しているか。
誰が“壊れ方”を笑っていて、誰がその再生回数を数えているか。
「昨日、決壊してたよなー。あれ、もうちょい大きめの声でやってみ?」
乾いた笑い声とともに、台本のように同じ台詞を繰り返させられる。無様な、醜い、演技。
声が裏返ると、拍手が起きる。
誰かがスマホを掲げている。もう、何も感じないと思っていたのに、胃がねじれた。
午後の授業中。回ってきたプリントには、「もうすぐ“卒業式”だね、遥ちゃん」と書かれていた。
卒業? まだ中二の秋だ。
その“卒業”が何を意味するか、遥はもうわかっていた。
隣の席の女子が、わざとらしく席を離れた。机と机の間に、空白ができた。
担任がそれを見て、何も言わなかった。
いや、正確には、何か見て見ぬふりのうまい目をしていた。
ホームルームのあと。
教室に数人が残り、「今日の“提出物”」を取りに来たと言った。
それはノートでも宿題でもなく、壊れかけた遥の記憶や、断片的な羞恥や、まだ口に出したことのない“願い”だった。
声に出せなかった夢、誰にも言えなかった痛み、夜に泣いたこと。
「ねえ、遥が言ってたじゃん。『消えたい』って。…言ったよね?」
笑いながら確認される。
心の奥底にしまった“逃げ場”を、他人の言葉で穿たれていく。
もう、自分の痛みは自分のものではない。
壊れ方すら、共有物にされていた。
夜。帰り道、駅の階段の途中で一度、立ち止まる。
このまま一歩、踏み外せば、と一瞬だけ思った。けれど、後ろから数人の足音が聞こえて、慌てて歩き出す。
「なにしてんの? 今日も“続き”やんないと」
影は、どこまで追いかけてくる。