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白波 灯
219
鬼霧宗作
303
翌朝、莉央は白い天井を見たまま呟いた。
「お姉ちゃんを裏切ったから、罰が当たったんだ」
母が椅子を引き、ベッドの傍へ座る。
「違う」
「私が悪いことをしたから、赤ちゃんが死んだ」
「あなたが千紘へしたことは、これから向き合って償うこと。この子の死を罰にして、償いを終わらせてはいけない」
「お母さん、私のこと嫌い?」
「怒っている。悲しい。それでも娘よ」
視線が私へ向く。
「お姉ちゃんは?」
母が先に遮った。
「千紘へ今、答えを求めないで。許すかどうかを決めるのは千紘。家族だから許せと、私は言わない」
母は、胎児を失った莉央のそばにいる。
それでも私へ、姉なのだから今すぐ許しなさいとは言わなかった。
以前なら、莉央がかわいそうだからと私に我慢を求めたかもしれない。母も変わろうとしている。そのことに、少しだけ救われた。
「ごめんなさい、お姉ちゃん」
「今は体を休めて」
「赤ちゃんのこと、悲しい?」
「……悲しいよ」
「生まれてほしくなかったでしょう」
喉が塞がった。
「今は、その話をしないで」
病室を出た。
産科病棟の消毒薬の匂い。新生児室から聞こえる泣き声。普段なら、無事に生まれた命の音として受け止められる。
今日は一つひとつの泣き声が、莉央の赤ちゃんはもう泣かないのだと告げてくるみたいで、皮膚の内側へ刺さった。
行き先を決めないまま歩き、超音波検査室の前まで来ていた。
遅い時間まで残っていた慧が、機器の点検をしている。
「高瀬先生」
いつもの呼び方だった。
「大丈夫ですか」
大丈夫だと答えようとした。
口を開いても、息しか出ない。
近づかず、作業台へ手を置いたまま待った。
「産婦人科医なのに、妹の妊娠を喜べなかったんです」
一度出た言葉は止まらなかった。
「夫の子だと分かった時、生まれてきてほしくないと思った。あの子が生まれたら、家族へ一生遼介との繋がりが残る。お母さんも孫として抱く。それが耐えられなかった」
「はい」
「それなのに、助けられなかったら悲しい。どこかで、もう生まれてこないことにほっとしている自分もいる」
視界が滲む。
「最低ですよね」
「いいえ」
「医師なのに」
「患者の前で、先生は必要な行動を選びました。今ここには患者はいません」
「結果は助けられなかった」
「結果と、先生が守った手順は別です」
一歩だけ近づいた。
「生まれてほしくないと思った胎児を助けるために走った。身内だから診断を独占せず、別の医師へ任せた。調査にも入らなかった。感情があったことと、医師として行動したことは両立します」
「助けたかったんです」
「分かっています」
「喜べなかったくせに」
「喜べないことと、死を望んで行動することは違う」
膝から力が抜けた。
慧が腕を伸ばし、倒れないよう支える。
額が白衣の胸へ触れた。離れようとしたが、私の指が彼の袖を掴んでいた。
「すみません」
「謝らなくていい」
「告白を断ったのに」
「今のことを返事にするつもりはありません」
一瞬だけ迷う間があった。
「抱きしめても構いませんか」
背中へ腕が回る。
髪を撫でず、好きだとも言わない。泣き止むまで、一定の呼吸だけが白衣越しに伝わった。
「いつもみたいに、立てと言わないんですか」
「立ち上がれる人には言います」
「今は?」
「今の先生へ急がせる言葉は使いません」
最後の堰が切れた。
父が死んだ時も、母が倒れた時も、泣いたあとはすぐ立つしかなかった。
今日は、立たなくても見捨てられない。
身体がそれを理解するまで、私は慧の白衣を掴んでいた。
しばらくして顔を上げる。
「このことを、後で後悔するかもしれません」
「後悔したら、今後は触れません」
「私が求めたのに?」
「弱っている時の希望を、次の関係への約束にはしません」
距離を戻した慧が、ティッシュと水を差し出した。
「何も求めないんですね」
「今の先生へ求めれば、ご主人と同じになります」
甘い慰めではなかった。
今の私を利用しないと、はっきり線を引く言葉。
だから、信じてもいいと思えた。
病室へ戻る前、洗面所で顔を洗う。
鏡の中の目は腫れ、白衣の胸元には涙の跡が残っている。水で押さえても完全には消えない。
それでも、隠すために化粧を直す気にはなれない。
母には、少し休んだとだけ伝えた。慧の名も、抱きしめられたことも話さない。弱った夜の出来事を、すぐ恋愛の意味へ変えたくなかった。
莉央は眠っていた。
ベッド脇の透明な袋には、握り皺のついた超音波写真が入っている。母が捨てずに保管したもの。
写真へ触れず、莉央の点滴残量と顔色だけを確認した。
姉としてここにいたい。でも、医師の顔をしていれば泣かずに済む気もした。
その二つを混ぜないよう、自分へ言い聞かせて椅子へ座った。
その時、スマートフォンが鳴った。
医療安全管理部からの連絡だった。
『桐生沙耶さんの初期対応記録に、事後修正の履歴が見つかりました』
泣いたあとの胸へ、冷たい緊張が戻った。
コメント
1件
読み終わりました。今回も本当に胸が締め付けられました……。莉央の「罰が当たったんだ」という言葉から始まる重さと、それに対して母が「償いを終わらせてはいけない」と返す場面、あそこがもう刺さりすぎて。そして何より慧先生の「喜べないことと、死を望んで行動することは違う」という言葉に、私は大きく頷いてしまいました。千紘が自分を責めながらも、ちゃんと医師として動いたんだと認めてもらえたからこそ、あの白衣の胸で泣けたんだと思います。最後の安全管理部の連絡、また新たな波紋が……続きが気になって仕方ないです。