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夕方、人気のない準備室。教室とは違う、少し古びた木の匂いが漂っている。


日下部は、いつものように無言で座っていた。机の上には開かれたノートと、読みかけの本。


ノックの音が、控えめに響いた。

一度だけ。小さく。



「……入っていいですか」



現れたのは、制服のまま肩をすぼめた女子生徒だった。

声はかすれていたが、それでもきちんと届く強さを持っていた。


日下部は、軽くうなずくだけで、言葉は発さなかった。

それでも、彼の視線が「ちゃんと聞いている」と語っていた。



「その……いろんなところで、うまくいかなくて……」


彼女は言葉を選びながら、目を伏せて続けた。



「家でも、学校でも、どこにいても、なんか、うまく馴染めないんです。

周りの子みたいにうまく話せないし、家でも、親と距離があるっていうか……

何もかも、浮いてる感じがして。

……誰かになれたらって、ずっと思ってます。

もっとちゃんとした誰かに」



しばらくの沈黙。

時計の針の音が、妙に大きく響いた。


そして日下部は、静かに口を開いた。



「“誰かになれたら”って思う気持ち、俺にもあるよ」



彼女は、少し驚いたように顔を上げた。

日下部は続ける。



「俺だって、ちゃんとしてるやつに見える“誰か”が、うらやましいときがある。

人前で堂々としてるやつとか、

家族に普通に甘えられるやつとか」



言葉は短い。

でも、決して軽くない。



「……けどな、俺はその誰にもなれなかった。

どこにいても、“ここでいい”って思えないこともあった」



日下部は、机の端に指を置いた。静かに、そこに触れるように。



「それでも、生きてるのは……

“君”でしかないんだよ。

誰かになることを諦めたって、

“君が君であること”を、誰かに否定される筋合いはない」



彼女の瞳が、わずかに揺れた。



「居場所って、用意されてるもんじゃない。

そういうの、なくても立ってられるって証明したやつが、

あとで“居場所を作る側”になれると思うんだ」



「……作れるんでしょうか。私にも」



小さな問いだった。けれど、それは確かな希望だった。


日下部は、ゆっくりと一度だけうなずいた。



「……うん。作っていい。

誰かと同じじゃなくていい。

その不器用なまんまで、君は、いていい」




🗝日下部からのことば:


「誰かになれないことは、敗北じゃない。

“君でいること”をやめなかったなら、

それは、ちゃんと生きた証だ」





帰り際、彼女は一礼し、そっと扉を閉めた。

日下部は何も言わなかったが、その静けさが、すでに返答だった。



また一人、「まだ大丈夫だ」と思えた誰かが、今日ここにいた。



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