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「自分のこと、なんか……どうしても好きになれなくて」
そう言ったのは、髪の長い男子生徒だった。
体育館からの笛の音が、遠くで小さく響いている。
日下部は、無言で聞いていた。
何も書かず、何も飲まず、ただ相手の方を見ていた。
「鏡とか見ても、何も思わないし。
頑張っても、全部中途半端で。
“こんな自分が何言ってんだろう”って、何をするにも思うんです」
言葉を吐くたびに、彼は視線を下げていく。
机の木目をなぞりながら、自分の声すら否定するように。
「友達にも、先生にも、ちゃんとしようとしてるように見えてるかもしれないけど……
ほんとは、ただ何かにならなきゃって必死なだけで。
……中身は空っぽで。何もないです」
日下部は、ようやく小さく息を吐いた。
すぐに言葉は返さなかった。
一言でも雑に言えば、相手をもっと壊すとわかっていたから。
「……わかるよ」
それは、想像でも慰めでもなく、実感だった。
「俺も昔、自分のこと、何にも持ってねえなって思ってた。
ただ毎日同じとこ歩いて、同じ空気吸って、
別に誰かに必要とされてるわけでもないのに、生きてるだけで」
手を組んだまま、日下部は遠くの窓を見た。
光がゆるく傾いて、教室の床を斜めに染めている。
「……でも、空っぽなまま生きてるって、けっこうすごいことなんだよ」
相手の少年が、目を上げる。
「空っぽだって思いながら、こうして話しに来れるってさ、
まだ何かに届きたくて、動いてるってことでしょ。
それができるなら、たぶんもう“何もない”わけじゃないと思う」
言葉を選びながら、日下部は視線を戻した。
どこまでもまっすぐに、逃げずに。
「自分を否定し続けるのって、体力いるし、しんどい。
それでも壊れずに今日ここにいるなら、
それはもう、“ちゃんと生きてる”ってことだと思う」
沈黙が落ちた。
けれど、それは冷たいものじゃなかった。
日下部は、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「……俺はそう思うけど。別に信じろとは言わない。
でも、ここで話したこと、否定しなくていいよ。
それだけは、本気でそう思う」
少年は、何も言わなかった。
ただ、机の端に置いていた両手の力を、少しだけ抜いた。
日下部はそれを見て、また黙った。
何も足さない。何も奪わない。
ただ、そこにいてくれる人間が一人いる――それだけで、世界は少し変わる。
日が暮れ始める頃、扉が静かに閉じられた。
そして日下部は、また静かに席に戻った。
そのまま、何事もなかったように、本のページを開いた。
けれど、誰かが来たあとの教室は、どこか少しだけ、あたたかかった。