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#ワンナイトラブ
#一途な思い
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秋の気配が朝の窓に薄く張りつき始めたころ、マルフリズルは三度目の来店をした。今度は商談用の封筒を二つ持っている。
「今日は提案に来ました」
彼女は席に着くなり、イドゥレの前とモリネロの前へそれぞれ封筒を置いた。
「借入金はこちらで肩代わりします。その代わり、白いポストは閉じる。イドゥレさんには港側の新商業棟で喫茶区画を一つ。モリネロさんには工房拡張の資金と設備一式」
あまりにも具体的で、だからこそ嫌だった。
「条件は一つだけ。離婚して、この建物を手放すこと」
サムソが思わず椅子を鳴らし、ラウシャンが「言い方!」と怒鳴った。だがマルフリズルは少しも顔色を変えない。
「感情的な反発は理解します。でも現実として、建物は古い。改修には金がかかる。二人とも、もっと軽く生きられる選択肢があるでしょう」
「軽くしたいのは建物ですか、人ですか」
イドゥレが言うと、彼女は静かに微笑んだ。
「両方かもしれませんね」
その言葉が、モリネロの中の何かを深く刺したらしい。彼は封筒を開かず、そのまま持ち帰った。夜になっても口数が少ない。食卓に並んだスープも半分しか減らない。
「そんなに魅力的でしたか」
イドゥレはつい刺すように言ってしまった。
「違います」
「違うなら、何を考えてるんです」
モリネロは答えるまでに長く間を置いた。
「僕がいなければ、あなたはもっと自由に店を続けられるんじゃないかと」
「は?」
「契約も、共同名義も、融資の条件も、全部僕がいるから複雑になる」
その言い方に、イドゥレの胸が強く打った。自分のために身を引こうとしている。そうわかるからこそ腹が立つ。
「勝手に決めないでください」
「決めてません。ただ」
「ただ何ですか」
「あなたに、これ以上重いものを増やしたくない」
イドゥレはスプーンを置いた。金属音がやけに鋭い。
「増えてません。もうとっくに、増えてるか減ってるかなんて段階じゃないです」
そこまで言って、言い過ぎたと思った。けれど戻せない。
その夜、ヤヌスが契約書の写しを持って来た。満了日が赤線で引かれている。入籍から一年。あとわずか。
「確認のためだ」
ヤヌスは静かに置いて帰ったが、帰り際に一度だけ振り向いた。
「契約は人を守るためにある。人を黙らせるために使うな」
それだけ言って扉を閉める。確認しなくても日付は知っていたのに、その言葉の方が重く残った。終了。紙の上では、それだけで済む。
店が寝静まったあと、イドゥレは買収条件書の封筒を開いた。港側の新店舗案の図面は、明るくて新しくて、白い壁がどこまでも均一だった。雨漏りの心配もなく、床板のきしみもないだろう。だがそこには、宛先のない手紙が滑り込む投函口も、犬の爪で削れた敷居もなかった。整っているのに、なぜか息が詰まる。自分が守りたいのは売上だけではないと、図面の白さが逆にはっきり教えてきた。
閉店後、イドゥレは一階の白いポストの前に立った。投函口の縁が指先に冷たい。ここを残すために結んだ契約が、今は二人を引き離す理由にもなっている。
モリネロは階段の途中で立ち止まり、何か言いかけてやめた。
「おやすみなさい」
結局それだけだった。
「……おやすみなさい」
イドゥレも同じだけ返す。
白いポストと引き換えに、もっと安全な店が手に入る。もっと広い工房が手に入る。もっと説明しやすい未来が手に入る。けれど、それと引き換えに失うものの名前だけは、どの封筒にも書かれていなかった。
契約の満了日まで、残りは指で数えられるほどしかない。