放課後の相談室。いつもより静かで、空気がやわらかい。窓の外で風が鳴っている。
そんな中、ノックの音が一度だけして、すぐにドアが開いた。
入ってきたのは、肩より少し長い髪を結んだ女子。
表情は淡々としてるのに、足取りだけが妙に慎重で、緊張がそのまま歩き方に出てるタイプだった。
遥が軽く手を上げる。
「どうぞ。好きなとこ座って」
女子は小さく頷いて、椅子に座ると、手を膝の上でそっと合わせた。
「……なんかさ、最近、めっちゃ疲れて」
蓮司が腕を組んだまま、こっちを一瞥する。
「何があった」
「家では……ずっと“いい子”でいなきゃなんないの。怒らせたくないし、心配かけたくないし……。でも学校来たら逆で、“空気”みたいで、誰かが話してても、私がいることに気づかれない」
日下部が静かに首を傾ける。
「気づかれない、って?」
「話しかけても被せられるし、輪に入ろうとするとスルーされるし……。別に嫌われてるってわけじゃないのかもしれないけど、なんか……透明みたいで」
女子は小さく笑ったつもりだったが、形だけの笑みで、痛そうだった。
「家では言われるんだよ。“あなたは本当にいい子ね”って。“あなたがいてくれると助かるわ”って。……でも、学校の私は、誰の目にも入ってない気がする」
遥が前のめりに座り直す。
「そのギャップ、しんどいよな。家で“いい子”って言われてると、外でも“いい子でいなきゃ”ってどっかで思っちゃわない?」
女子は、少し言いにくそうに頷いた。
「……そう。怒られたくないし、嫌われたくないし……。“いい子でいれば大丈夫”って、小さいときから思い込んでて。でも、学校だとそれが逆に、空気みたいな存在になるっていうか……」
蓮司が低く言う。
「家の“いい子”ってさ、だいたい“都合のいい子”って意味だぞ」
女子が顔を上げる。
「え……?」
「親から見て、扱いやすいってこと。期待に応えてくれる、余計なこと言わない、手がかからない。そういう子ほど、外で自分の声を出せなくなる」
日下部が続ける。
「外で存在感が薄くなるのは、“いい子役”が染みついてるせいだよ。『嫌われたらどうしよう』『迷惑かけたくない』って考える分、言葉が遅れる。すると輪から外される」
女子は手を握りしめた。
「……じゃあ、どうすれば……?」
遥がゆっくり言う。
「まず、“いい子じゃなくていい”って、自分に許すとこからだよ」
女子はまばたきをした。
「許す……?」
「うん。文句言っていいし、ため息ついていいし、失敗していいし、適当に返事していい。家で勝手に作られた“良い子像”を守るために、自分まで消える必要、どこにもないから」
日下部が優しく補足する。
「家庭と学校って、違う世界だよ。家でどう扱われてても、外でまで同じ役を背負う必要はない。“いい子じゃない私”を、ちょっとずつ出してみて」
蓮司が付け足す。
「空気から抜け出すのに必要なのは、好かれる努力じゃねぇよ。“自分がそこにいる”って自覚のほうだ」
女子は、胸の奥を突かれたような顔をした。
「……私、そこにいたのかな。ちゃんと」
「いたよ」と遥が即答する。
「ただ、誰にもそれを見せてなかっただけ。家で“いい子”やりすぎて、外の自分まで薄くなってただけ」
沈黙が落ちた。
でもさっきまでの重さとは違い、呼吸みたいな静けさだった。
女子は、ゆっくり息を吐いた。
「……そっか。……そっか。なんか、ちょっと楽になった」
「それで十分」と遥が笑う。
立ち上がる女子の背は、来たときよりほんの少しだけまっすぐだった。
ドアが閉まると、蓮司がぼそっと言った。
「“いい子”って、呪いみたいだよな」
日下部が頷く。
遥がつぶやく。
「……でも解ける呪いだよ。自分で気づけたらな」
相談室は再び静かになり、次の扉の音を待ち始めた。
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