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その夜の月はやけに明るく、やけに近かった。吸い込まれそうな赤みを帯びた橙色で、綺麗な円形。これほど見事な満月は年に何度も見られないだろう。
背に翼を生やした猫は窓の外に見える月を静かに見上げていた。月明りに照らされた猫の影は長く濃い。
いつの間にか布団が軽くなっているのに気付いて目を覚ました葉月は、窓辺で座ったままの愛猫へとベッドの中から手を伸ばして、その名を呼んだ。
「くーちゃん?」
差し出された手に顔を近付けて擦り寄ってきた猫の毛は、冷えてひんやりしていた。いつベッドを降りたのだろうか、全く気付かなかった。
同じような光景を前にも見たことがあるなと、既視感を覚えて頭を捻る。この世界に来た時も、猫は部屋の中から満月を見上げてなかっただろうか、と。
確か、研究者のケヴィンは言っていた「猫に転移魔法を使う意志があり、何らかの条件が揃っていなければいけないのでは」と。その条件は満月の可能性はないだろうか。
正解は分からない。けれどあの日は恐ろしいほど美しい満月だったのは覚えている。
一説には、人の生死は潮の満ち引きに左右され、満月や新月、台風の日には出産数が増えるという。自然環境が生き物に与える作用は様々だ。なら、聖獣の魔力が月の影響を受けるとしても不思議な話ではない。
「そうね、満月の日は魔力の流れが安定している感じがするわ」
夜中にふと思いついた仮説を朝食後のお茶を飲みながら話すと、ベルは「確かにそうね」と納得するように頷いていた。あくまで仮説に乗った仮説だけれどと付け加えて、
「魔法がない葉月の世界でも、満月の夜だけは魔素が現れるのかもしれないわね」
いくら魔力があっても魔素が無ければ魔法の発動はできない。大気中の魔素を身体に取り込んで具現化するのが魔法だ。
「その魔素は取り込んだ分を身体に溜めておけるんですか?」
「さあ、これまで魔素の無い状態になったことがないから実際のところは分からないけれど、くーちゃんが戻って来れるようになるまで10年でしょう?」
「10年間、満月の日の魔素を溜め続けてたってこと?」
可能性はあると思うわ、とベルは顎に指を当てて考えながら答えた。
月の満ち欠けは29.5日周期だと理科の授業で習った覚えがある。大体1か月周期だ。年に12回の満月を10年、つまり約120回に分けて取り込まれた魔素が転移魔法を発動できる量になったのが、あの夜だったということか。
古代竜との戦いで使い切ってしまった体内魔力を補う為の魔素が溜まる間、くーは普通の猫として生活していた。長い年月をかけて集めた魔素がようやく十分な量になった時、元の世界への転移を試みた。そして魔素が当たり前のようにあるこの世界に帰って来たことで、全ての魔力が復活し、翼も背に戻った。――これがベルの仮説だった。
なるほどと納得するものの、葉月は寂しさを覚えずにはいられない。力が溜まったから元の世界へと帰る、それは理解できる。でも、一歩間違えたら知らない内に愛猫が居なくなっていたかと思うと、飼い主の身には悲しさを通り越して切ない。
「それならどうして、昨日は月を見ていたんだろ?」
昨夜の満月を意味深に見上げていた姿を思い出し、隣で丸くなっている猫の背を撫でる。もう魔力は十分に戻っているはずなのに、昨日はどうして――?
ベルは満月の夜は魔力が安定すると言っていた。いつもよりも鋭くなった魔力で、猫は普段は感じない何かを感じ取ったのだろうか。それは猫が森の中で目指している物と何か関係あるのだろうか。
「近い内に、もう一度森に行きたいです」
決意した目で森の魔女に訴える。誰よりも森の探索で疲弊して凝りてしまったかと思っていたので、ベルは少し目を見開いた。でもすぐに口角を上げて頷いた。
「葉月のお望みならば」
その日の午後、葉月とマーサが来館一番乗りを予想していたジョセフが慌ただしく館に馬で乗り込んで来た。実際の一番は魔女ルーシーだったので、女三人の賭けは成立しなかったが。
あまりの彼の慌てように、粉薬やガラス工房の件で何か問題でも起こったのかと心配したが、そういうことでは無いようだ。
「お見合いは、ちゃんと断りを入れて貰ったから!」
ようやく時間を作ることができたので、急いで報告に駆け付けたつもりが、全く気にしても貰えず、ジョセフは肩を落とした。
「そちらは私には関係ないことだわ。それより、こちらから報告したことで問題は起こっていないかしら?」
「あ、ああ……薬の粉末化のことは他領からも問い合わせが何件かあったみたいだね」
「今はまだ領外に出すつもりはないけれど、放っておいても勝手に広まると思うわ」
別に大した技術じゃないのだから、その内に誰かも思いついて同じように作るだろう。真似されても困らないが、影響を受ける可能性のあるところのフォローは怠らないで欲しいとだけは願う。