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二頭の馬が土煙を上げて尖塔の前に止まったのは、夕刻のことだった。空は熟しすぎた果実のような濃紫色に染まり、森の奥からは、むせ返るような緑の匂いが立ち上っている。風が不意に方向を変え、二人の騎士の外套を小さく巻き上げた。監査報告のために王都へ戻っていた彼らが、再びこの地を訪れるのはおよそ一か月ぶりだ。赤毛の女は馬から降り、目の前の光景を見上げる。
「いつ来ても、ここは変わりませんね」
外見だけは以前のまま。年月を吸い込んだ黒煉瓦の壁も、天を突く細い尖塔も、何も動かぬままそこに在る。けれど、見上げるユスティナの胸には、言葉にできない重苦しさが沈殿していた。
「いや」
隣で手綱を引いたフラスニイルが、短く否定する。
「変わったのは、建物ではない。人の方だ」
ふと見れば、塔の周囲には数人の村人がたむろしていた。彼らは騎士たちの姿を認めると、怯えるどころか、露骨に安堵の色を浮かべて歩み寄ってくる。
「おお、騎士様たちですか。戻られたのですね」
「良かった……ソラス様が、その、少しばかり……」
男はそこまで言って言葉を濁したが、その瞳に恐れの色はない。むしろ、そこにあるのは熱を帯びた依存だった。
「あの方なら、何でも叶えてくださります」
「お願いをすれば、決して断られない。あの方は、私たちの救いなのだ」
人々の虚ろな、けれど欲望に満ちた輝きを見て、フラスニイルは静かに目を伏せた。
「……最悪の段階だな」
老騎士の独り言は、風にさらわれて消えた。塔の重い扉は、叩く前から、招き入れるように音もなく開いた。中から現れたソラスを見て、ユスティナは思わず息を詰めた。
少女は、以前よりもひと回り痩せていた。その身体は今にも折れそうなほど細い。なのに、背筋は刃のように真っ直ぐで、銀の髪に縁取られた瞳は、気味が悪いほどに澄み渡っている。
「こんにちは」
乱れのない、丁寧な一礼だった。声は静かで、どこか遠い場所から響いてくるように整っている。
「お久しぶりです、ユスティナさん。フラスニイルさん」
名を、寸分の狂いもなく正確に呼んだ。ユスティナは動揺を隠せず、わずかに後ずさった。
「……私たちの名前を、覚えていたのか」
「忘れる理由がありませんから」
彼女が二人の名を聞いたのは、最初の事情聴取の際、たった一度きりだったはずだ。幾日の空白を経て、迷いなくその名を口にする少女の姿に、ユスティナは背筋が凍るような違和感を覚えた。
「少し、話をしたい」
フラスニイルが重々しく切り出した。その視線は、ソラスの背後に広がる、暗い塔の内部へと向けられている。
「塔の中で構わないか」
夕闇が忍び寄る尖塔の入り口で、ソラスはただ、音もなく微笑みを深めた。
⬛︎
「どうぞ」
拒絶の色はどこにもなかった。 簡素な応接室に通され、三人は古びた木の椅子を挟んで向かい合った。窓からは軽やかな風が入り込み、沈黙の重さを際立たせている。沈黙を最初に断ち切ったのは、耐えかねたようなユスティナの声だった。
「……お前があの事件以後も、さらに増してその力を村人に使っていると聞いた。本当か」
「はい」
間髪入れぬ即答だった。
「望まれたからです」
「望まれたら、何でも与えるのか」
「私に、出来ることなら」
ユスティナは机の下で拳を硬く握りしめた。
「その結果、相手の器が壊れてしまうかもしれないと思わなかったのか?」
ソラスは、小鳥が羽を休めるように静かに首を傾げた。
「壊れていません。彼らは、満たされています」
「中身が別人に変わってしまっただろう!」
「変化は、必ずしも悪ではありません。望まない今のまま、立ち止まっているよりは」
静かにやり取りを聞いていたフラスニイルが、地響きのような声で口を開いた。
「君は……彼らに、”選ばせて”いない」
ソラスの視線が、老騎士を射抜いた。曇りのない、けれどどこか底の知れない透明な瞳だった。
「選ばせることが、常に善なのですか?」
男が答えるのを待たず、彼女は続けた。
「人は、選択することそのもので苦しみます。迷い、後悔し、取り返しがつかなくなるまで自分を責める。そんな道しかないのなら――」
彼女の声が、わずかに熱を帯びる。
「最初から、迷わずに済む真っ直ぐな道を渡してあげた方が、ずっと親切ではありませんか」
ユスティナが、椅子を鳴らして立ち上がった。
「それを、世の中では”支配”と言うんだ!」
「いいえ」
ソラスもまた、すっと立った。彼女の影が、床に長く伸びる。
「配慮です」
室内の空気が、凍りついたように張り詰めた。フラスニイルは深く息を吸い込み、現実を噛みしめるように呟いた。
「君は、純粋な善意でやっているのだろう。それは否定しない。だが、世界というものは、個人の正しさだけで保てるほど頑丈ではないのだよ」
ソラスはしばらく、言葉を探すように黙っていた。やがて、ゆっくりと、けれど確かな響きで唇を動かした。
「私は。私は、誰も傷つけていません」
二人の騎士の視線が、華奢な少女に集中する。彼女は、静かに自分の胸に手を当てた。
「助けを求められて、手を差し伸べる。苦しんでいる人に、私に出来ることをする。それが、どこから見れば罪になるのですか」
深い沈黙が降りた。フラスニイルは、やるせなさに目を閉じた。ユスティナは奥歯を噛みしめる。騎士として剣を抜くための理屈は、もう十分に揃っている。だが、指が動かない。目の前にいるのは、恐るべき怪物などではない。かつて雪の中で震え、誰よりも優しくあろうとしていた、一人の少女なのだ。
「……ソラス」
絞り出すような重い声で、初老の兵が続ける。
「だとしても。我々は君を守るために、君を止めなければならない」
ソラスは、困った子供のような顔をして、ほんの少しだけ笑った。
「それは――とても、残念です」
その瞬間、塔のどこかで黒猫が一声鳴いた。助けを呼ぶ合図だったのか、あるいは決別の鐘だったのか。最初に異変を察知したのは、フラスニイルだった。突如、空気が重くなる。すべての音が深い水底に吸い込まれるように、ひっそりと静まっていく。
「ソラス?」
名を呼んだ、その瞬間だった。
夕刻の斜光が床に落としていた影が、わずかに揺れた。風もない。燭台の火も静かだ。にもかかわらず、影だけが、水面のように波紋を広げる。
フラスニイルは反射的に息を止めた。
影は、壁を這い、天井を舐め、机や椅子の脚へと絡みつきながら、ゆっくりと“増えて”いく。広がる、というより、そこに元から存在していたものが、姿を現しているようだった。
「下がれ、ユスティナ!」
「っ――!」
電光石火。後方へ鋭く飛び退き、ユスティナは、足元にあった椅子を掴む。木製のそれを、ほとんど投擲に近い勢いでソラスへと放った。木の簡素な枠組みは空気を裂き、少女の上半身を完全に覆い隠す軌道で迫る。
視界が遮られる。
その一瞬。
ユスティナの身体はすでに床を蹴っていた。騎士として叩き込まれた間合いの詰め方。疾風のごとく踏み込み、回り込み、背後へ。剣は抜かず、まずは腕を押さえる。魔法使いの起点は手だ。そこを封じれば、まだ間に合う。
――もらった。
ソラスの背後から仕掛ける。手を伸ばす。届く。触れられる距離だ。しかし、指先が彼女の衣服に触れる直前で、何かに”掴まれた”。
足首。
見下ろすまでもなく理解する。影だ。
「くそ……ッ!」
歯を食いしばり、ユスティナは力任せに脚を引き剥がそうとした。だが、まるで地面そのものに縫い付けられたかのように、びくともしない。騎士として鍛え抜いた筋肉が悲鳴を上げ、全身の力が影に吸い込まれていく。
「ふざけるな……!」
反射的に首元のアミュレットを握る。魔力反射の術式が起動する感覚が、確かにある。これまで幾度となく魔女の拘束をねじ曲げてきた、信頼の護符。なのに、動かない。”動きにくい”どころではなかった。
影は、冷たくもない。ただ、重い。山を直接押し付けられるかのごとき質量の塊が、優しく絡みついている。
次の瞬間、数瞬前に放った椅子が床に激突し、砕ける音が遅れて響いた。視界が開ける。そこに立っているソラスは、振り返りもせず、ただ両手を胸の前で組んだままだった。まるで、最初から、すべて分かっていたかのように。
体を捌きながら抜刀し、その状況を、フラスニイルは同時に捉えた。視線は動かさない。状況を”見る”より早く、全体像が脳裏に組み上がる。影の拡がり、ソラスの位置、ユスティナの踏み込み、そして――止まった。
遅い。
そう判断した瞬間には、すでに身体が動いていた。飛び込む。剣を低く構えたまま、一直線ではなく、斜めに切り込む軌道を取る。影の流れを断ち切る角度。魔法そのものではなく、満ちた魔力の偏りを崩すための一閃。これまで、幾度も魔女の術式を崩してきた手順だった。
「――ッ!」
踏み込みと同時に、刃が閃く。
しかし、手応えが、ない。
影は裂けない。乱れない。まるで、最初からそこに存在しないものを斬ったかのような虚無感だけが、腕に残った。その異様さにフラスニイルの瞳が細まる。次の瞬間には、剣を捨てていた。判断は一瞬。
物理で届かないなら、直接止める。
長い脚で床を蹴り、ソラスとの距離を詰める。ユスティナの横をすり抜け、少女の正面へ。片腕を伸ばし、その両手を押さえ込む体勢に入る。
届く。
だが、その一歩が、踏み出せない。足首に絡みつく感触。重い。地面が、足を掴んでいる。
「……そうか」
低く、息を吐く。先ほどのユスティナのようにアミュレットに触れた。術式は確かに発動している。それなのに、まるで意味をなさない。
魔法を受けている感覚が、ない。否、”ない”と思うほど満たされていた。つまりーーこの空間そのものが、彼女の領域となっている。尖塔を完全に自分のものにしているのだ。
フラスニイルは、そこで初めて理解する。これまで制圧してきた魔女たちとは、圧倒的に魔力に対する”理解”が違う。そして、その質と量も比較にならない。
剣を持たぬまま、彼は真っ直ぐにソラスを見据えた。そこにあるのは、焦りでも、恐怖でもなく、純粋な観察と判断。騎士として、最後まで状況を見極める目だった。
「ソラスーー何がしたいんだ」
魔力を練るソラスは祈りの形を解くと、両手を伸ばし、動かぬ騎士それぞれの方に向けた。それは誰かを呪うための行動ではなく、ただ純粋に、迫る危険を止める時の形だった。
「ごめんなさい」
あまりにも穏やかで、聞き慣れた声。
「でも、私の話を聞いて欲しいんです」
伸びた影が、二人の足首から膝へ、そして腿へと、ゆっくり遠慮がちに這い上がる。関節を固定し、力の逃げ場を奪っていく。
「ですから、安心してください」
ソラスの言葉は、ほとんど哀願に近い響きを持っていた。
「痛くはありません。怖い思いもさせません」
今にも涙が零れ落ちそうに揺れる、青い瞳。
「少しだけ……少しだけ、動かないで下さい」
「勝手なことを言うな!」
ユスティナが声を荒らげる。
「暴力を振るっている自覚がないのか!」
影は、今度は彼女の腕まで這い上がってきた。ゆっくりと、けれど確実に関節を固定し、抵抗する術を封じていく。
「あなた達は、優しすぎるから。……優しすぎて、弱すぎる」
艶やかな唇を一度だけ、噛む。
「私に、本気で剣を振るうことなんて、出来もしないのに」
声が、かすかに震え始めた。
「それでも、私を止めようとする。それは、あなた達がただ苦しむだけです。私に拒絶されるたびに、あなた達の心が傷つくのを見たくない」
フラスニイルは、地を這う唸り声を上げた。
「だからこそ、我々はここにいるんだ。君一人に、その重荷を背負わせないために……!」
影が胸元まで這い上がり、呼吸がわずかに苦しくなる。その様子を見たソラスは、慌てたように半ばまで手を下ろした。
「これ以上はしません。苦しいから」
影の侵食がぴたりと止まる。
「息は出来ます。心臓も、動いています。……私は、命を縛るつもりなんてありません」
少女の指が微かに開かれる。ユスティナは荒い息を吐きながら、憎しみの混じった目で彼女を睨みつけた。
「……これが、お前の言う”善”か?」
ソラスは唇を強く噛みしめた。
「違います。これは……」
一瞬、迷いが生じた。けれど、すぐに新たな答えを見つけ出した。
「これは、保護です」
二人の目が、絶望と共に大きく見開かれた。
「あなた達は、正しさのために傷つき、最後には壊れてしまう。だから――」
ソラスは、彼らに一歩近づいた。彼女の足元だけは、影が避けるようにして静止している。
「私が、止めます。あなた達が、これ以上、正しいことのために苦しまなくていいように」
反論を許さない、静かな意志。フラスニイルは、掠れた声で呟いた。
「……君は、もう――」
その先を言おうとして、言葉が続かなかった。その続きが、目の前の少女を最も深く傷つけるナイフであることを理解してしまったからだ。それでも、ソラスは静かに首を横に振った。
「いいえ。私は、何も変わっていません。……たぶん、昔からこうだったんです。ただ」
彼女は一度言葉を切り、悲しげに目を伏せた。
「自分に出来ることが、少し増えてしまった。それだけなんです」
ソラスの操る影が、完全に二人を包み込んだ。もはや指一本動かせない。剣も、拳も、叫びさえも届かない。少女は深く、深く頭を下げた。
「いつか、すべてを元に戻します。……それまで、どうか、何も考えずに休んでいて下さい」
それは心からの祈りであり、同時に、慈悲という名の残酷な宣告だった。
騎士二人は悟った。少女の中に、悪意はない。敵意もない。目の前にいるのは、略奪を繰り返す暴君でも、世界を滅ぼす魔王でもない。ただ、純粋な善意で騎士二人を完全に封じ込める、誰よりも優しく、誰よりも危険な存在なのだと。塔の外で、黒猫が短く、冷ややかに鳴いた。