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『——着いたわね、こっちよ』
強引に手を引っ張られ、室内に入る。確かに此処は調理室ではあるものの、普段使っているキッチンとは違って、大規模なパーティーを開催する時くらいにしか使わない予備の調理室だった。そのせいか今日は誰もおらず、人の気配からも随分と遠い。甘い匂いもしないからケーキを焼いていた感じもしないし、段々不安になってきた。
『ケーキはあのオーブンの中にあるみたいね』
『じゃあ、まだスポンジの状態って事?』と訊くと、意味が通じないのか、ティアンは軽く首を傾げた。まさかオーブンの中に完成形のケーキが入っているとでも思っていたのだろうか?
『開けましょう!早く食べたいわ!』と言って、臆する私の腕を無理矢理引っ張って行く。
『あ、危ないから、絶対に駄目だよ!』
調理場は子供にとって危険がいっぱいだ。だからか、どんなに空腹であろうが、絶対に入るなと念を押されている場所でもある。なので必死に足を踏ん張って抵抗してみたが、空腹なせいか力が入らない。魔法を使ってみようかとも思ったが、まだ五歳だし、独学の身ではせいぜい静電気くらいの雷を落とすのが限界なので意味があるのかもわからない。存命の家族の中で、実は自分だけが亡くなった母みたいに魔法が使えるというのは私にとっては唯一の切り札だったので、今が本当に使うべきタイミングなのかでも迷ってしまった。
(どうしよう、どうしよう、一体どうしたら?)
引っ張られながら必死に考えたが何も浮かばない。そうこうしているうちにオーブンの前まで私達が辿り着くと、ティアンは『誕生日おめでとう!』と大声をあげ、私の背中をドンッと強く押した。ただでさえ痩せ細っている体なのに、空腹の身では押されるがままに体が前に倒れていく。すぐ目の前には大きなオーブンがあり、普段は使われていない調理室なのに何故か強い熱を感じた。
(あ、まずい——)
相当危険な状況であると本能的にわかっても、刹那の間では出来る事なんか何もなかった。
『ぎゃあああああああああああああああ!』
断末魔に近い悲鳴が調理場に響く。結局私は、手で自分の体を支えたりなどすらも出来ず、そのままオーブンに向かって倒れ込んでしまったのだ。しかも運悪く顔面をぶつけてしまった。何百度にも熱せられたオーブンのせいで顔面の左半分が燃えるように熱い。激痛に苦しみながらその場に倒れ、必死に水場に向かって床を這っていると、『あはははは!|好様《いいざま》ね!』と笑う姉の声が聞こえてきた。
『人の婚約者に色目なんか使うからよ!』
五歳児のものとは到底思えない言葉と共に、強い嫉妬に満ちた瞳を向けられた。きっと、婚約に至った茶会で私とメンシス様が二人きりでお茶を飲んでいた事や、普段の訪問後に旧邸へ必ず顔を出していた事などを告げ口した誰かの言葉をそのまま真似たのだろう。
『メンシス様は、アンタが私と同じような顔だから、優しくしてくれただけなのに勘違いしちゃって。ばーか』と言いながら、私のスカートを脚ごと踏みつける。そのせいで前に進めず、肌の爛れが悪化していくのをひしひしと感じた。
『でも良かったわね。これで誰にだって簡単に区別出来るもの。美しい姉と醜い妹。——うん、完璧だわ!』
そう言って、また『あはははは!』と楽しそうに腹を抱えて姉が笑う。今まで見た笑顔の中で最も醜いその顔を、私は一生忘れられそうにないと思った。
『——ど、どうされましたか!』
突如、酷く驚いた男性の声が聞こえた。私の叫び声を聞きつけた使用人の一人が何事かと様子を見に来てくれたみたいだ。
すると、直様ティアンは私の脚から足を離し、必死の形相を作って使用人の方へ駆け寄って行く。
『大変なの!ケーキが食べたいからって、カーネが勝手にここへ来ちゃって!危ないからダメって何度も止めたのに、聞いてくれなかったの!』
うるうると瞳を潤ませ、悲しそうな声でティアンが訴える。全て嘘なのに、顔の痛みで頭の中がいっぱいで、否定する言葉すら私の口からは出てこない。
『そしたら足を滑らせて、オーブンにぶつかって……うわぁぁぁぁんっ』
とうとう泣き出してしまったティアンを使用人が慰める。彼は床でのたうっている私を一瞥すると、『何だ、それじゃあ自業自得っすね』と冷たく吐き捨てた。
『此処は危ないですから、お部屋に戻りましょう、お嬢様』
『で、でも、カーネは?無事なの?』
『大丈夫ですよ。ちょっと大袈裟に騒いでいるだけでしょうから、水でもかけておけば治ります』
『ほ、本当に?』と訊く声はとても不安そうだ。元の顔に戻るのだとしたら、骨折り損だと心配しているのだろう。
『み、水……お医者さ、さま、呼んで……く、ださ、いっ』
激痛に耐えながら必死に懇願する。使用人の足にしがみつき、土下座するみたいになりながら頼み込んだのだが、腹を蹴り飛ばされた挙句に火傷に向かって唾を吐かれた。
『うっぐっ……うぅぅぅっ』
痛い、痛い痛い痛い——。もう何もまともに考えられず、死にたいとさえ思う。すると、騒動を聞きつけた一人の侍女が私の顔面に水をかけてくれた。掃除をする時に使っていたもので、かなり汚れていたけどそれでも今はありがたい。とにかく冷やさねばと、なけなしの知識で床にまだ残っている汚水を手ですくって何度も顔にかける。そんな私の姿が滑稽だったのだろう。しばらくの間、調理場からは笑い声が絶えなかった。