🕯️筆見(ふでみ)
「え……この絵、まだ描き終わってないのに、風が吹いた……?」
スケッチブックの中、
描きかけの木がひとりでにざわざわと揺れた。
まだ色も塗ってないのに。
まだ背景も、人物も描いていないのに——
駅名は筆見(ふでみ)。
出口から見える景色は、まるで町全体がスケッチの途中のようだった。
輪郭はあるが、塗りが薄い。
木々や建物は鉛筆で描かれた線画のように見えるが、近づくと確かに立体。
遠くの空に、描きかけの雲が動いている。
筆が止まったままの世界。
その中に立っていたのは、
中山 雫(なかやま・しずく)、21歳、美術大学の学生。
小柄な体格に、藍色のパーカーと黒のエプロンワンピース。
首から小さなカラーパレットをぶら下げており、
ショートボブの髪に、赤い鉛筆をさしているのが彼女の日常スタイル。
「……線画だけの町って、こんなに気味悪いんだ」
雫は肩にスケッチブックを担ぎ、
町の中心にある“空白のキャンバス”と呼ばれる広場に辿り着く。
そこは、誰も絵を描かない、描いてはいけない場所として
立て看板にこう記されていた。
「ここにだけは、決して“風景”を描かないでください」 「——筆見町 記録課」
だが、雫は好奇心に抗えなかった。
誰も描かないなら、自分が描いてしまえば、
この無機質な町に色が生まれるのではと。
彼女はスケッチブックを開き、
見えない何かに導かれるように、筆を動かしはじめた。
最初は空。
続いて山、電柱、木、鳥。
そして、町の奥にある見たことのない“塔”のような建物。
筆を止めた瞬間、
足元から風が吹いた。
頭上で、木々が本当に揺れた。
目の前に、彼女の描いたはずの塔が、
ゆっくりと浮かび上がるように現れていた。
「……私、こんな絵、描いたっけ?」
塔の形が、だんだんと崩れ、
絵に描かれていないはずの“穴”がその中心に空く。
すると、周囲の町並みから線が消えはじめた。
木がほどけるように消え、
建物の窓が塗りつぶされていく。
彼女は恐怖に駆られ、
絵を破ろうとした——が、ページは石のように固まっていた。
塔の中心から聞こえてきたのは、
彼女の声だった。
「……それでも、描きたかったんだよね。 “ないもの”を、あるって思いたくて」
気づくと、雫は南新宿駅のベンチに座っていた。
肩にはスケッチブック。
だが、その最終ページだけが破れてなくなっていた。
代わりに、小さな絵具のチューブが胸ポケットに入っていた。
ラベルには、こう書かれていた。
「色のない願い、ひとつ」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!