夕暮れの相談室。机の上の時計が、秒針を静かに刻んでいる。 ドアがきしむ音とともに入ってきたのは、一年生の男子だった。肩をすくめ、目線はずっと床に落ちている。
「……あの」
「ん。座れ」
日下部が椅子を指すと、男子は小さく頷き、うつむいたまま腰を下ろした。
「家に……居場所がないんです」
言葉はか細く、途切れがちだ。
「父さんと母さん、毎日忙しいし、家にいても話しかけられるのは“勉強しろ”とか、“ちゃんとしろ”ってことばっかりで……。妹は妹で仲良くしてくれないし。リビングにいても、自分だけ透明人間みたいで……」
声が震えた。
「……どこにいても、いらない人間なんだって思います」
日下部は目を細めて、しばらく黙っていた。机の上の鉛筆を転がしながら、ようやく言葉を絞り出す。
「……居場所ってさ、“用意されるもん”じゃねぇんだよな」
男子が顔を上げる。
「家族だろうが友達だろうが……誰かが『ここがお前の居場所だ』って決めてくれるわけじゃない。自分が『ここにいたい』って思ったとこが、結局は居場所になるんだと思う」
「……でも、家族にそれを感じられないなら、俺は……」
「家にだけ限定しなくていい」
日下部は、はっきり言った。
「“家族がすべて”みたいに思わなくてもいいんだ。学校でも、友達んちでも、相談室でも……お前が『ここなら息できる』って思える場所が、居場所なんだよ」
男子は小さく息を吐いた。
「……そんな場所、探してもいいんですか」
「探せ。むしろ探すのが普通だ」
日下部は少し間を置き、目をそらしながらつぶやくように付け足した。
「俺だって……家は、息苦しかった。だからこうして、居場所を勝手に作ってる」
男子はじっと日下部を見た。ほんのわずかに、表情が和らいだ。
「……なんか、少し楽になりました」
「なら、よかった」
帰り際、男子は小さな声で「また来てもいいですか」と聞いた。
「好きにしろ」
日下部は照れ隠しのように短く返す。
扉が閉まると、夕陽が窓から射し込み、室内を赤く染めた。
日下部はひとり呟いた。
「……家族にわかってもらえねぇのは、痛ぇよな」