テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#ハッピーエンド
26
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
二十一階層。
十一階層と同じ、真っ白な部屋だった。
壁も、天井も、床も、均一な白。傷も汚れもない。中央に石の台座が、ぽつんと置かれているだけだ。
血の匂いもしない。土も、焚き火の煙もない。吸い込んでも、鼻の奥に何も残らない。
四人が台座の前に並んだ、その瞬間。
『また来てくれたんだね。楽しみにしていたよ』
声が降ってきた。耳からか、頭の内側か。判別する前に、喉が勝手に乾く。
柔らかく笑っているようで、底が見えない。
『今回は——エドガー君が試練を受けるんだ』
「おや」
名を呼ばれ、エドガーは肩をすくめた。口角だけが上がり、指先が一瞬、魔導書の背を押さえる。
わざと軽く息を吐いてから言った。
「ご指名とは光栄ですね。
……ただ、できれば“読書の試験”だけでお願いしたいところですが」
声は軽口の形をしている。けれど語尾が微かに震えた。本人は気づかないふりをしたまま、台座の白を見据える。
床が淡く光を帯びた。
「エドガー!」
「おい!」
ダリウスとオットーが同時に手を伸ばす。
届かない。
白光が足元から立ち上がり、エドガーの輪郭を薄くしていく。ミラが「えっ」と声を上げた瞬間には、もうそこにはいなかった。
*
「……なっ!?」
まばたきの先で、景色が変わっていた。
木の床。壁一面の本棚。背表紙、背表紙、背表紙。
机の上には研究メモが山になり、乾いたインクの跡が広がっている。ひっくり返ったインク壺の染みまで、記憶どおりだ。
エドガーは一歩だけ前へ出た。床がきしむ。手を伸ばし、本棚の縁をなぞる。ざらついた木の感触が指腹に戻ってきた。
「……自宅、ですか?」
『では、早速試練を始めようか』
頭上から声が落ちる。
『この空間で、一時間ごとに、君の魔導書の知識を奪う』
背筋が伸びた。肩がこわばり、息が浅くなる。
『大半の知識を差し出せば、試験は合格だ』
言葉は淡々としていた。だから余計に、胃の奥が重い。
机の角を見つめたまま、エドガーの指がじわじわ強く握り込まれていく。
『ただし——退場する道も用意しておくよ』
コトン、と小さな音。
机の上に銀色のベルが置かれていた。
『そのベルを鳴らせばいい』
一拍。
『そうすれば、君のお父さんとの記憶と引き換えに、先へ進ませてあげる』
「…………」
口が開きかけて止まった。喉の奥が痛い。息を吸うと、胸の内側が引っ張られる。
エドガーは机の端をぎり、と掴んだ。関節が白い。
「そんな条件——」
声が低い。言葉の前に歯が鳴りそうになるのを、奥歯で噛み殺す。
「飲めるわけがないでしょう」
ベルは机の上で何も言わない。塔の声も引いた。
書斎の空気だけが戻ってきた。紙と木と、微かな潮の匂い。
エドガーは椅子に座らなかった。背筋を立てたまま、本棚を見た。
指先が勝手に、よく使う段へ向かう。決定打を放ってきた呪文の本。攻撃術式の棚。防御、補助、解析。頭の中で、仲間の顔が順番に出てくる。
机の上のベルが視界の端に入るたび、視線が外れる。
そのたびに、エドガーは自分の指を握り直した。
「……迷うまでもありませんね」
口から出た声は小さかった。だが、言い終えた後に呼吸が少しだけ深く入った。
まぶたを閉じる。
庭の木。古い板。ロープ。きぃ、きぃと鳴る音。
あのブランコを結び直していた父の背中。ぶつぶつ文句を言いながら、最後に「よし」と手を叩いた手。
エドガーは目を開けた。机の上の魔導書へ視線を落とす。
それからベルへは、見ない。
指先でページをめくった。紙が擦れる音が静かな部屋に響く。
*
一時間ほど経ったころ。
「……ん?」
見慣れた一文の途中で、目が止まった。
そこにあるはずの単語が、ただの形に見える。意味がつながらない。目線だけが往復する。
エドガーは唇を一度舐めた。乾いている。
深く息を吸い、前後の段落を指で押さえた。
(……大丈夫だ。前後の文脈で補完するんだ)
指先が紙を押す力を強め、読み進めた。
ページをめくる動きだけは、機械みたいに一定だった。
*
二日目の夜。
声に出して詠唱をなぞっていたエドガーは、自分の発音が途切れた瞬間に舌打ちした。
喉まで出た音が、形にならず落ちる。
(まずいですね……発音が、抜け始めている)
額に汗がにじむ。袖で拭っても、また出る。
それでも口を開く。次の節へ進む。進んでから、戻ってまた繰り返す。
(まだだ。まだ詠唱できる魔法はある。音を多少外したところで、構文さえ保てば発動はする……はずだ)
「はずだ」のところで、指が止まった。
机の上のベルが、視界の端で光った気がした。エドガーは目を逸らし、魔導書を叩くように指を置いた。
(……クソォ。父さんとの記憶だけは、絶対に渡さない)
呟きは、紙に吸い込まれる。
*
三日目。
詠唱のリズムが崩れた。何度繰り返しても、拍が合わない。
魔導書の行を追う目が、行の途中で空白に落ちる。読めているのに、入ってこない。
「……文法まで、怪しくなってきましたか」
独り言が、やけに大きい。
乾いた笑いが漏れた。笑っているのに、頬が引きつる。
それでも椅子には座らない。
本棚の前を一歩、二歩。戻って机へ。ページをめくる。書き写す。消えたところを補うように、紙に線を引く。手首が重い。
*
四日目。
多くの本は黒い線の集まりに見えた。記号は追える。意味が滑る。
エドガーは棚の奥から、一冊だけ引き抜いた。
擦り切れた背表紙。角の丸い薄い本。
初めて父がくれた魔導書だった。
そっと開く。紙に鼻先を近づける。インクと紙と、微かな潮の匂い。
胸の奥が、そこでだけ少しほどけた。
「……この記憶だけは、取れなかったみたいですね」
息を吸う。吐く。もう一度吸う。
まぶたを閉じると、最初に浮かんだのは庭だった。
土の匂い。濡れた木の匂い。
庭の真ん中に立つ木は太く、ごつごつした枝が低く張っている。そこにロープがかけられ、古い板がぶら下がっていた。板の角は削れて、ささくれている。
幼い自分は、その板に尻を乗せた。体重をかけると、きぃ、と鳴った。
もう一度蹴る。ぶらん、と揺れる。きぃ、きぃ。
笑い声が、勝手に喉から出た。
木の上に、父がいた。枝に片膝を立て、ロープの結び目をいじっている。
指先が太い。なのに結び目だけはやたら丁寧だ。結び目を引いて、ほどいて、また結ぶ。
父はぶつぶつ言っていた。
「面倒くさい」「こんなもん」「まったく」
言いながら、板がまっすぐになる位置までロープをずらし、板を軽く叩いて確かめた。
エドガーがもう一度揺らす。板が軋む。
父が木の上から覗き込み、眉だけで合図した。
もっと強く蹴れ、という顔だった。
それに従うと、ブランコは少しだけ高く揺れた。
きぃ、きぃ、という音が、庭の空気に混ざって残った。
(……あれが、最初の記憶か)
まぶたを開く。書斎の木の床。机。ベル。
エドガーは視線をずらし、棚の一冊を抜いた。紙の匂いが立つ。
物心つく前には、母はいなかった。
代わりに本があった。薄い童話。擦り切れた絵本。学校の図書室の本。端から端まで読んだ。内容を覚えても、指はページをめくった。
ある日、父が数冊の本を抱えて帰ってきた。
潮風の匂いの染みついた粗末な上着。肩に雪でも積もったみたいに、細かな砂がついていた。父は玄関先で靴を脱ぎながら、腕の中の本を落とさないように持ち替えた。
机の上に、どさりと本が置かれる。
三冊。どれも厚い。背表紙に、見慣れない文字が刻まれていた。
父は咳払いを一つしてから、そのうち一冊を指先で押し出した。
差し出すというより、「ほら」と置く感じだ。
エドガーがページを開く。
線と記号。読めない文字。意味の通らない並び。なのに、胸が一度だけ跳ねた。指が止まらない。
写した。
羊皮紙にインクを落とし、一文字ずつなぞった。手が汚れる。乾く。ページをめくる。もう一度なぞる。
父はその横で、何も言わずに椅子に座っていた。夜更けに水を飲みに立つときだけ、足音がした。
その本がどれほど高価かを知ったのは、ずっと後だ。
漁師の稼ぎで買える代物ではない。どうやって手に入れたのかと聞くと、父は同じ顔で笑った。
『子供が気にすることじゃない』
そう言って頭をくしゃりと撫でる。
その手が、ほんの少しだけ震えていた。
そこから父の衰弱は始まっていた。
咳が増えた。立ち上がるときに腰を押さえるようになった。冬になると、夜中に何度も目が覚めていた。
大学には特待生で入った。父はまるで自分のことのように喜んだ。
冒険者になってからは、実家に戻る頻度が減った。
帰るたびに、父は少しずつ痩せていった。
背中が丸くなり、指が骨ばっていく。
それでも、父は同じボロボロの上着を着ていた。
エドガーは金を送った。魚の値が悪いと聞けば多めに。冬服を買ってほしくて。食事を増やしてほしくて。
だが、次に帰ったときも上着は同じだった。
戸棚を開けた。
布袋が奥に並んでいた。ひとつ、ふたつ。
開くと、中には送った金がそのまま入っていた。封も破られず、たたまれたまま、きれいに。
息が止まった。
声が出ない。指先だけが袋の縁を掴んでいた。
父はそれを見て、眉をしかめた。叱るでも誇るでもなく、ただ面倒そうに言った。
『おまえの金は、おまえの未来の金だ』
父はそう考えたのだろう。
エドガーは袋を戻した。戻すしかなかった。
引退したとき、ようやくまとまった時間を作って故郷に戻った。
海風の匂いが強い日だった。家は小さく、変わっていない。扉を開けると、父が出てきた。
痩せて、皺だらけで、それでも笑っていた。
エドガーはその笑いに、反射で笑い返そうとした。だが、父の目が一度だけ泳いだ。
『おまえさんは——誰じゃったかのう?』
胸の内側が、音もなく落ちた。
言葉が喉で引っかかった。呼吸が浅くなる。手が勝手に握られて、爪が掌に食い込む。
父は困ったように笑った。
笑いながら、目を外した。玄関の外を見た。台所の方を見た。どこかに答えがあるみたいに、視線だけが動いていた。
エドガーは一歩前に出て、父の肩に触れようとして、止めた。
触れたら、崩れるものがある気がした。
(今度は、私の番だ)
エドガーは机の上のベルを見た。
そこに手を伸ばす気にはならない。指は動かない。代わりに、魔導書を引き寄せた。
父との記憶だけは渡さない。
庭のブランコ。潮風の上着。震える手。あの一言。あの視線。
それが消えたら、自分が何を積んできたのかさえ、きっと分からなくなる。
エドガーは魔導書を広げ、紙の端をつまむ。ページをめくる音だけが書斎に落ちた。
本を閉じ、胸に当てた。ベルの方を見ないまま、机に戻る。
「この思い出さえあれば、できますよ。
——もう一度始めましょうか。ゼロから、魔法を」
言い切ったところで、肩の力が抜けた。抜けた分だけ、背筋を立て直す。
すると。
塔の声が、愉快そうに響いた。
『合格だ。……おまけして、知識は戻しておくよ』
白が視界を満たした。床が遠のく。棚が消える。机もベルも溶ける。
*
瞬きをすると、真っ白な部屋に戻っていた。
背後に、ダリウスたちの気配がある。足音、息づかい、布の擦れる音。
頭の中には、失われたはずの知識が整って並んでいた。
けれど、何をしたのかは思い出せない。途中の道だけが丸ごと抜けている。
エドガーは一度、喉を鳴らした。
胸の奥に残る温かさだけが、まだ手触りとして残っていた。