放課後の校舎は静かで、廊下の遠くから掃除用具の音がかすかに響く。
日下部は机に肘をつき、ノートに書きかけの文字を眺めていた。
ノックもなくドアが開き、背の低い男子生徒が顔を覗かせる。
「……先輩、ちょっといいですか」
「おう。入って」
日下部は声を低く返し、椅子の一つを指さす。
生徒は迷うように足を踏み入れ、机の端に腰を下ろす。
手のひらで膝を握り、視線は床に落ちたままだ。
「自分って、いないほうがいいんじゃないかって思うことがあるんです」
言葉が小さく震え、息をつぐように続ける。
「授業も部活も普通にやってるのに、何をしても誰かの足しになってる気がしないっていうか……」
日下部は机の角を指で叩き、しばらく考えるように沈黙した。
「……俺も、そういう気持ちになるときある」
「え、先輩でも?」
「うん。授業で手を挙げても、答えても、なんか空気に吸い込まれたみたいになることある」
生徒は少し驚いた顔をする。
「じゃあ、俺だけじゃないんですね」
「俺だけじゃないって言うより、誰でもあるんだと思う」
日下部は視線を窓の外に向けた。
「存在意義って、答えが見えるものじゃない。正しい答えも、目に見える形もない。
でも、今ここに座って話してる自分だって、誰かの耳に届いてる。
それだけでも、たぶん意味はある」
男子生徒は指先を膝の上で組みながら、少しだけ息をついた。
「……言われてみると、少し落ち着きます」
「落ち着くっていうか、これから少しずつ自分の意味を作ってくんだろうな」
日下部は不器用に笑った。
「焦らなくてもいい。答えが見えなくても、歩くことはできる」
窓から夕陽が差し込み、二人の影を机の上に長く落とした。
静かな部屋に、ほんの少しだけ温度が残った。
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