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#創作
ゆずき
192
#恋愛
もな
302
38
第1話 ホモ・マルティスの日常
登場人物
瀬良ユウト
十八歳。
やや細身で、肩まで届かない茶色の髪を無造作に整えている。
瞳は灰色がかっており、眠いと目尻が少し下がる。
皮膚には薄い黄緑とベージュの細かな曲線模様が浮かんでいるが、気分や本人の操作によって形が変わる。
普段は動きやすい半袖の服とゆったりしたズボンを好む。
右手の副脳は細かな作業が得意で、左手は少しせっかち。
瀬良ミナ
ユウトの母。
四十代。
茶色の髪を後ろでひとつにまとめ、落ち着いた灰色の瞳をしている。
頬から首筋にかけて淡い紫の波模様を出していることが多い。
料理に慣れており、両手の副脳へ別々の作業を任せるのが得意。
瀬良トウマ
ユウトの父。
四十代。
短い茶色の髪と、がっしりした体格。
腕には緑と灰色の角ばった皮膚模様を登録している。
朝は静かだが、気分がいいと短い音のオノマトペをよく使う。
◆
朝。
窓の向こうで、石油燃料の車が低い音を残して通り過ぎた。
ブォォ……。
少し遅れて、道路の向こうから別の車の音が重なる。
ユウトは布団の中で片目だけ開けた。
部屋の隅では、厚みのある家庭用端末が静かに動いている。
丸みを帯びた大きな本体。
背面は机の奥まで張り出しており、画面の横には昨日差したままの記録媒体が残っていた。
時刻表示は七時十二分。
ユウトは数秒だけ見つめた。
「……あと三分」
腕を布団から出す。
右手が枕元を探った。
本人はまだ天井を見ている。
指先が端末の小さな目覚まし装置をつかみ、停止ボタンを押す。
ピ。
音が止まった。
ユウトは目を閉じ直した。
右手だけは動いている。
目覚まし装置を机へ戻し、その横にあった髪留めをつかみ、さらに昨日脱いだ上着の端を拾い上げた。
「それはいい」
右手が止まる。
上着を持ったまま。
ユウトは目を開けた。
「あとで」
指が上着を離した。
床へ落ちる。
「そこに戻すんじゃなくて」
右手が少しだけ動いた。
上着を拾い直し、椅子の背へ掛ける。
ユウトは小さく息を吐いた。
こういうところが、まだ少し雑だった。
副脳へ任せれば何でも完璧にこなせるわけではない。
特に寝起きは、前日に覚えさせた指示がぼんやりしている。
右手に片付けを任せながら、ユウトはようやく身体を起こした。
足が床へ触れる。
冷たさを感じるより早く、両脚が立つ準備を始めていた。
背中を伸ばす。
肩を回す。
その間にも右手は机の上に散らばった紙を重ねている。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚目で止まった。
ユウトは顔だけそちらへ向けた。
紙の上には学校から渡された提出用の用紙と、昨日描いた落書きが重なっている。
右手は判断を待っていた。
「提出用は机の左。落書きは棚」
動きが再開する。
提出用紙を左。
落書きを棚。
そして残った二枚を重ねる。
ユウトは立ち上がった。
「よし」
短く言うと、右手の作業をそのまま続けさせて部屋を出た。
廊下へ出る。
足は勝手に台所へ向かう。
歩くことに意識を向ける必要はない。
階段を下りるときも同じだった。
一段。
一段。
本人は今日の予定を考えている。
午前に学校。
午後は帰宅。
提出物は一つ。
帰りに皮膚パターン店へ寄るかもしれない。
そう考えている間にも、足は踏み外さず階段を下りていく。
最後の一段。
着地する直前、床に小さな布が落ちていた。
左足が半歩だけ横へずれた。
ユウトはそこで初めて床を見た。
「ん?」
洗濯物だった。
踏みそうになったらしい。
脚の副脳が先に避けた。
ユウトは布を拾い上げる。
「ありがと」
誰に言ったわけでもない。
自分の脚へ言ったようなものだった。
台所から香ばしい匂いが流れてくる。
ミナが調理台の前に立っていた。
右手では豆の生地を薄く伸ばしている。
左手では卵コーチンの卵を割っていた。
本人はそのどちらも見ていない。
大きな鍋の中をのぞいている。
「おはよう」
「おはよ」
ユウトは椅子へ座った。
ミナの左手が卵を器へ落とす。
殻を横へ置く。
次の卵を取る。
割る。
落とす。
その間に右手は生地を折り返していた。
ユウトは少し眺める。
「それ、両方任せてる?」
「うん。卵はいつものやつだから」
「濃味?」
「今日は大玉」
「へえ」
ミナは鍋の火加減を確認した。
その横では両手が別々に動き続けている。
ユウトは自分の右手を見る。
まだ何もしていない。
「朝の皿、出して」
手へ軽く意識を渡す。
右腕が動いた。
棚を開ける。
皿を一枚。
二枚。
三枚。
食卓へ運ぶ。
ユウト本人はその間に窓の外を眺めた。
向かいの家の屋根から細い煙が上がっている。
遠くでは工場の煙突から灰色の煙がゆっくり流れていた。
道路を通る車の音が重なる。
ブォン。
ゴロロ。
少し離れたところから、列車の低い振動まで届く。
街が起きている。
右手が皿を置き終えた。
だが、そのまま棚へ戻ろうとしたところで止まった。
「コップも」
再び動く。
三つのコップ。
ユウトは自分の左手で水差しをつかんだ。
右手がコップを並べる。
左手で水を注ぐ。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
二つの動作が重なる。
慣れた作業なら、これくらいは難しくない。
ミナがちらりと見る。
「最近、右手うまくなったね」
「まだ片付けは雑」
「昨日も?」
「本と靴下を同じ棚に入れた」
ミナの頬の模様が細かく波打った。
笑っている。
「それは教え方が悪いんじゃない?」
「分類くらい分かってほしい」
「副脳に期待しすぎ」
「でも母さんの両手、ほぼ何でもやるじゃん」
「何年使ってると思ってるの」
右手で生地を返しながら、左手が卵液を混ぜる。
主脳はユウトとの会話。
身体は朝食。
まるで三人分が同時に動いているようにも見える。
けれどミナにとっては、それが普通だった。
玄関のほうから足音がする。
トウマが入ってきた。
短い茶色の髪は寝起きのまま少し跳ねている。
腕に登録された緑と灰色の角模様も、まだ輪郭がぼやけていた。
「おはよう」
「おはよ」
「おはよう」
トウマは席へ座る。
そして鼻を少し動かした。
「卵コーチン?」
「大玉」
「ポルッ」
トウマが口から短い音を出した。
小さく弾むような音。
ユウトが振り向く。
「朝からそれ使う?」
「いい知らせのときの音だろ」
「それ去年くらいのやつ」
「まだ使ってる人いる」
「父さんの年代だけじゃない?」
トウマの腕の模様が一瞬だけ細くなる。
「……ポショ」
今度は少し沈んだ音。
ミナが笑った。
「それも古い」
「じゃあ今なんて言うんだよ」
ユウトは少し考えた。
口を閉じ、舌の位置を変える。
ピルル。
短い音が上がって消えた。
トウマが眉を寄せる。
「それ、嬉しいなのか?」
「軽く嬉しい」
「軽く?」
「すごく嬉しいならもう少し長い」
ピルルルッ。
ミナの右手が生地を皿へ移しながら、本人はユウトを見る。
「学校で流行ってるの?」
「最近はこれ」
「文字では?」
ユウトは指で机に形を書くような動きをした。
「こんな感じ」
「分からない」
「音が先だから」
トウマは水を飲む。
「文字になってから教えてくれ」
「父さん、文字になったころには別の音流行ってるよ」
「じゃあ追いつけない」
「そういうもの」
ピルル。
ユウトがもう一度鳴らす。
今度はトウマがまねした。
ピル……ル。
途中で音が少し揺れる。
ユウトの頬に細かな模様が浮いた。
笑いをこらえたときに出る癖だった。
トウマが気づく。
「皮膚に出てるぞ」
ユウトは頬へ手を当てる。
「うそ」
「出てる」
「止める」
意識を皮膚へ向ける。
頬から首へ流れていた細かな模様が、ゆっくり整っていく。
薄い黄緑とベージュの曲線へ戻る。
右腕。
左腕。
首筋。
鏡を見なくても、大まかな状態は感覚で分かる。
けれど完全には分からない。
「母さん、右頬どう?」
ミナが見る。
「少し残ってる」
ユウトはさらに集中した。
模様が一度だけ震え、元のパターンへなじむ。
「今は?」
「大丈夫」
トウマが腕を組む。
「若いうちはよく出るな」
「父さんも眠いと模様ぼやけるじゃん」
「眠いのは別」
「同じでしょ」
トウマの肩の模様が少しだけ広がった。
言い返したいときの癖。
ユウトが笑う。
「出てるよ」
トウマが自分の肩を見る。
「……見なかったことにしろ」
今度はミナが、低く短い音を鳴らした。
クッ。
それだけで二人とも意味が分かった。
「笑ったな」
「笑ってない」
「今のは笑ってる音だろ」
「ちょっとだけ」
朝食が並ぶ。
豆生地を焼いた薄いパン。
卵コーチンの卵を使った柔らかな料理。
細かく刻んだ野菜。
三毛牛の乳から作った飲み物。
ユウトは皿を手元へ寄せた。
右手へ食事の一部を任せる。
フォークを持つ。
切る。
口元へ運ぶ。
本人は机の端に置いてある学校用の紙を見る。
一口。
二口。
右手は一定の速度で動く。
左手で紙をめくる。
「今日、提出これだっけ」
ミナが鍋を片付けながら答える。
「昨日ずっと書いてたやつ?」
「うん」
「だったと思う」
ユウトは文章を読む。
右手が次の一口を運ぶ。
食べる。
紙を見る。
読む。
また一口。
トウマがそれを見ている。
「食事くらい主脳で食べれば?」
「味は主脳で感じてる」
「そういう意味じゃない」
「朝は時間ない」
「まだ七時半だぞ」
「七時半しかない」
「学校まで近いだろ」
ユウトは返事をしながら、右手が取ったものを口へ入れた。
少し硬い。
「ん?」
視線を皿へ戻す。
右手が野菜の端を取っていた。
いつもなら食べる部分。
ただし今日は少し焦げている。
副脳はそこまで判断しなかったらしい。
「これ焦げてる」
ミナが振り向く。
「そこ避けて」
ユウトは右手へ意識を向ける。
焦げた部分は取らない。
しばらく手が止まる。
そして別の場所を取った。
「学習した?」
「たぶん」
トウマが口元を緩める。
「副脳に朝食を任せるからそうなる」
「父さんだって運転ほとんど脚に任せてるじゃん」
「道路は焦げない」
「道路は急に人が出てくる」
「だから目は見てる」
「僕も皿は見てる」
「紙見てただろ」
「……ポショ」
ユウトが沈んだ音を出す。
トウマがすぐに返した。
「それは古いんじゃなかったのか?」
「こういうときは使える」
「都合いいな」
食卓に小さな笑いが広がる。
ユウトの肩から腕へ細かな模様が走った。
今度は隠さない。
食事が終わるころには、外の音もさらに増えていた。
列車。
車。
誰かの話し声。
近所の家から聞こえる調理器具の音。
遠くでは、クモに近い節足動物を農地へ運ぶ車両がゆっくり道を進んでいる。
トウマが席を立った。
コップを持つ。
左手へ食器を片付けさせながら、右手で上着を取る。
「じゃあ行ってくる」
「今日遅い?」
「たぶん普通」
「普通って何時?」
「夕方」
「幅広い」
「そういう普通」
玄関へ向かう。
途中でトウマの左手が食器を流しへ置いた。
本人は振り返らない。
靴を履く。
ドアを開ける。
「ピルル」
さっきユウトが教えた音を鳴らした。
少し形が違う。
ユウトが思わず吹き出した。
「違う!」
「これでいい」
「全然違う!」
ドアが閉まる。
ユウトの頬にまた模様が出た。
ミナが食器をまとめながら言う。
「楽しそうだったじゃない」
「父さん、絶対職場で使うよ」
「流行るかも」
「それはない」
ユウトは立ち上がった。
時計を見る。
七時四十一分。
「やば」
「まだ時間あるでしょ」
「皮膚整えてない」
「さっき整えてたじゃない」
「学校用のやつ」
部屋へ戻る。
階段を上がりながら、両脚に移動を任せる。
主脳は今日の服と模様の組み合わせを考える。
昨日は細い曲線。
今日はもう少し単純なもの。
部屋へ入る。
壁際に小さな鏡。
その横に皮膚パターン登録器が置いてある。
大きな装置ではない。
ただし手のひらに収まるほど小さくもない。
机の半分ほどを占めている。
ユウトは椅子へ座った。
登録器の横に並ぶ札を見る。
日常用。
学校用。
運動用。
祭り用。
古いものまで残っている。
「学校用」
指で札を押す。
登録器が低く鳴る。
ヴゥン。
腕を読み取り面へ置く。
皮膚の感覚が少しだけざわつく。
痛くはない。
腕から肩。
肩から首。
胸。
背中。
脚。
身体各部の副脳が、登録された皮膚操作を呼び出していく。
黄緑の曲線がゆっくり細くなる。
ベージュの部分が広がる。
そこへ灰色の小さな斑点が混ざる。
派手ではない。
学校でよく使うパターン。
鏡を見る。
「んー」
右肩だけ少し濃い。
指で触れる。
修正を意識する。
右肩の模様がゆっくり整う。
今度は左腕。
こちらは問題ない。
首。
頬。
額。
頬だけ少し違う。
さっき笑ったときの感情模様がわずかに残っていた。
「消えて」
模様が薄くなる。
少し待つ。
もう一度鏡を見る。
今度は揃った。
ユウトは満足して立ち上がった。
制服ではなく、学校指定の簡単な上着を羽織る。
鞄を取る。
机を見る。
提出用紙。
右手へ指示する。
「提出用紙入れて」
右手が動く。
紙を持つ。
鞄を開く。
中へ入れる。
そこで止まった。
ユウトも止まる。
「閉めて」
鞄を閉じる。
「そこまでセットで覚えてよ」
右手は何も答えない。
当然だった。
ユウトは肩をすくめた。
階下へ降りる。
ミナは台所の片付けを終え、窓辺の植物へ水を与えていた。
「行ってきます」
「忘れ物ない?」
「たぶん」
「たぶん?」
ユウトは鞄を見る。
右手が持っている。
左手でポケットを確認する。
携帯端末。
鍵。
記録札。
ある。
「大丈夫」
玄関を出る。
朝の空気が皮膚へ触れる。
少し冷たい。
身体がすぐに反応する。
皮膚表面の感覚が変わり、呼吸がわずかに深くなる。
数分もすれば気にならなくなるだろう。
道路へ出る。
車が一台近づいてくる。
ユウトは歩道を進む。
車が横を通過。
ブォン。
思わず口で同じ音をまねする。
ブォン。
自分で鳴らしてから、少し笑う。
前から同年代の学生が歩いてきた。
互いに軽く手を上げる。
相手が短い音を鳴らす。
ピル。
ユウトも返す。
ピル。
言葉にするほどでもない朝の挨拶。
それだけで十分だった。
交差点へ出る。
ユウトは左右を見る。
道路標識を見るより先に、身体の奥で方角が分かる。
北は向こう。
学校は北東寄り。
考えなくてもなんとなく分かる。
今日はいつもの道。
脚へ任せる。
歩き始める。
右足。
左足。
一定の速度。
主脳は今日の授業を考える。
右手は鞄の肩紐を握っている。
左手はポケットの中で携帯端末の角を触っている。
皮膚には学校用の模様。
耳には街の音。
口からは、ときどき小さなオノマトペ。
いつも通りだった。
特別なことは何もない。
腕が考えることも。
脚が先に避けることも。
皮膚を着替えることも。
音で気持ちを伝えることも。
北がなんとなく分かることも。
全部、朝の支度と同じくらい普通のことだった。
ユウトは交差点を渡る。
向こうに学校の建物が見える。
石油燃料の車が走り、その奥では大きな据え置き端末を積んだ配送車が止まっている。
農地へ向かう車両。
仕事へ向かう人。
学校へ向かう学生。
それぞれの身体が、それぞれの作業を続けている。
ユウトは少しだけ歩調を上げた。
足がすぐについてくる。
「今日も頼むよ」
小さく言う。
返事はない。
ただ、身体はそのまま前へ進んだ。
翠球の朝は、今日もごく普通に始まっていた。
コメント
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第2話読んだよ!第1話の雰囲気そのままに、ユウトの日常がじっくり描かれててすごく好き。副脳に任せた右手がちょっと抜けてるところとか、トウマがオノマトペを覚えようとして失敗するとことか、家族の空気感がほんわかしてて読んでて落ち着くわ。皮膚模様や「ピルル」みたいな音表現で感情を伝える文化も自然に馴染んでて、世界観がどんどん広がってく感じがたまらない。翠球の朝、これからも見守りたい。