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午後の相談室は、いつもより静かだった。 机の上には湯気の消えかけた紅茶と、書きかけのメモが一枚。
遥は窓際の椅子に腰を下ろし、淡い光に揺れるカーテンをぼんやりと見つめていた。
ノックの音がしたのは、そのときだった。
返事をすると、扉が少しだけ開く。
覗いた顔は、まだ幼さの残る中学生のものだった。
「……ここ、話してもいいところ、ですよね」
か細い声だった。遥はうなずき、向かいの椅子を軽く指さす。
少年はスマートフォンを両手で握りしめたまま、遠慮がちに腰を下ろした。
「グループLINEの中で……みんなが話してるとき、自分だけ何も言えないんです」
言葉を紡ぎながら、彼は視線を落とした。
机の木目をなぞる指が、かすかに震えている。
「何か言おうとすると、変なこと言いそうで……。
既読がついても、誰も反応してくれなかったらどうしようって。
だから、何も言えなくなって。いつのまにか、ただ見てるだけになりました」
その声には、疲労の膜のようなものが張りついていた。
遥は静かに聞いていた。言葉を挟まず、ただ、呼吸のリズムを合わせるようにして。
「返さなきゃって思うのに、指が動かないんです。
“おはよう”って言葉を打つだけでも、心臓が速くなる。
それで結局、何も言えなくて……。既読が増えるたび、置いていかれる気がして」
少年は苦笑した。
笑っているのに、瞳の奥には涙の色がにじんでいる。
「みんなが笑ってるスタンプとか送ってるのに、自分が入ると空気が変わる気がして。
だからって、グループを抜ける勇気もなくて。抜けたら本当に終わる気がして……」
部屋の時計の秒針が、淡々と時間を刻んでいた。
その音だけが、ふたりの沈黙の隙間を埋めている。
やがて、遥は小さく息を吐いた。
それはため息というより、呼吸の再開のようだった。
「……無理をしてまで、そこにいなくてもいいと思う」
少年は顔を上げた。驚いたように瞬きをする。
「無理して笑う場所は、居場所にはならない。
でも、ひとりになりたくない気持ちも、分かる。
だから……“抜ける”でも“残る”でもなく、まずは“距離を取る”でもいいんじゃない?」
「距離……ですか」
「スマホを閉じる時間を、自分で決めてみる。
その間は誰の声も見ないで、自分の呼吸だけを感じる。
そうして、ほんの少しでも“楽になれる”なら、それはもう立派な選択だよ」
遥の声は、どこまでも静かだった。
優しさというより、痛みを知っている人の静けさ。
「でも……みんなに置いてかれるのが、怖いです」
少年の声は震えていた。
遥はしばらく考えるように目を伏せ、それからゆっくり言った。
「“みんな”って、本当はそんなに多くない。
本当にお前を見てくれる人は、きっとひと握りだけ。
そのひと握りが見つかれば、あとの沈黙は怖くなくなる」
少年は、手の中のスマホを見つめた。
画面の光が、彼の指先を淡く照らしている。
その光の中で、何かが少しだけほどけたように見えた。
「……少し、休んでみます」
その言葉を残して、少年は立ち上がった。
扉が閉まると、部屋には再び静けさが戻る。
遥は残された紅茶を見つめながら、窓の外に目をやった。
街のざわめきは遠く、空はどこまでも透明だった。
それでも、その透明の中に、確かに誰かの息づかいが残っているような気がした。