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その日は、雨が降っていた。
冷たい匂いが漂う放課後の廊下を抜けて、遥は相談室のドアを開けた。
湿った空気の中に、誰かの気配があった。
窓際の椅子に、ひとりの少女が座っていた。
制服の袖口を強く握りしめ、視線は床に落ちたまま動かない。
傘を持っていないのか、髪の先が少し濡れて光っていた。
「……先生には言えなくて」
その声は、雨の音よりも小さかった。
遥は頷き、椅子を少し引いて向かい合う。
彼女は言葉を探すように唇を動かし、やがてぽつりとこぼした。
「学校に行く理由が、もう分からないんです」
その一言で、空気が揺れた。
窓の外の雨が、一瞬だけ静まったように思えた。
「行っても、苦しいばかりで。
でも休むと、罪悪感が残るんです。
朝、制服を見た瞬間に、体が止まって……。
“行かなきゃ”って分かってるのに、足が動かない」
彼女の指先は、机の上でかすかに震えていた。
遥は言葉を挟まない。ただ、その震えを見つめていた。
「“なんで行かないの?”って聞かれるたびに、答えられなくて。
だって、理由なんてないんです。ただ苦しいだけで。
それを説明しても、誰も分かってくれなくて……」
喉の奥で、押し殺すような息が漏れた。
遥はゆっくりと椅子にもたれかかり、目線を合わせた。
「理由がない苦しみって、一番重いよね」
その声は、驚くほど穏やかだった。
慰めでもなく、正論でもない。ただ寄り添う響きだった。
「“どうして行けないの?”って言われても、
本当は、“行かなきゃいけない”理由のほうが、もう分からなくなってるだけなんだと思う」
少女は、はっと顔を上げた。
「……行かなきゃいけない理由、ですか」
「うん。
“将来のため”とか“出席日数”とか、そういう言葉が並ぶけど、
それって誰かに言われた理由で、自分のじゃないんだよ。
自分の中の理由が見えなくなったとき、人は動けなくなる。
それは怠けじゃなくて、疲れなんだ」
言葉の重さが、静かに部屋に落ちていった。
雨音がまた強くなり、窓ガラスを細かく叩く。
「でも……行かないと、怖いんです。
また遅れて、また置いてかれて、みんなに変な目で見られて。
それを想像するだけで、息が苦しくなる」
遥は少しだけ目を細めた。
その表情には、どこか痛みのような共鳴があった。
「怖くて当然だよ。
みんな同じように生きてるように見えても、
本当は、朝の数分間を戦ってる人がたくさんいる。
布団から出るのに、全力を使ってる人だって」
彼女の瞳が、わずかに揺れた。
涙ではなく、少しだけ光を取り戻すように。
「……それでも、どうしたらいいか分かりません」
「分からなくていい」
遥ははっきりと言った。
「分からないままでも、立ち止まってるおまえを、ちゃんと見てくれる誰かがいる。
だから、今日は“休む”を選んでいい。
行くための理由を探す前に、休むための理由を作ってもいいと思う」
少女は、息を呑んだ。
その言葉を、まるで初めて聞く真実のように受け取っていた。
しばらくして、彼女は小さく笑った。
「……少し、楽になった気がします」
その笑みは、壊れやすい硝子みたいだったけれど、確かにあった。
扉が閉まり、雨の音だけが残る。
遥は窓の外を見つめた。
灰色の空の向こうに、薄く光る境界線が見えた気がした。
その向こうに“明日”があるかは分からない。
それでも、今この瞬間だけは、確かに息をしている――
それが、生きる理由のすべてなのかもしれない。