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翌朝、王立衣装局の空気はいつも以上にせわしなかった。星糸祭が目前に迫り、王女の婚約披露用の装いは最終仕上げに入っている。絹の擦れる音、糸切り鋏の軽い鳴り、運搬係の早口。そこへ警護隊の見回りが加わるのだから、ただでさえ狭い通路は息苦しい。
その中で、ジェイレンは妙に落ち着いていた。
怖くないわけではない。月白の婚礼衣がまた現れるかもしれないし、現れなくても昨夜の赤い文字は消えない。だが、自分一人だけが見たのではなかった。パリックも見た。言い争いばかりなのに、あの人が黙って消したりはしないだろうという変な確信があった。
昼前、補修を終えた礼装を棚へ戻していると、背後から低い声がした。
「昼の休憩、北棟の記録庫へ来てくれ」
振り向くと、パリックが通路の端に立っていた。今日も表情は固いのに、昨夜の回廊で同じものを見たあとのせいか、最初の日ほど遠い人には見えない。
「命令ですか」
「提案だ」
「昨日より少し進歩しましたね」
「君は一言多い」
「そちらもです」
だが、彼はそこで反論せず、少しだけ目元を細めた。笑った、と言うには短すぎる変化だったが、ジェイレンは不意打ちを受けたように胸が揺れるのを感じた。
昼の鐘が鳴ると、ジェイレンはパンを半分だけかじって記録庫へ向かった。北棟の奥にある小部屋は、衣装の台帳や貸出記録が保管されている場所で、石の壁には昼でも冷気が残る。部屋の中央には長机があり、その上にすでに帳簿が何冊も積まれていた。
アニトゥアが最初から座っている。
「遅いですね」
「休憩も取らずに来たんですけど」
「私よりは遅いです」
「比べる相手が悪いですよ」
彼の横で、パリックが分厚い台帳を開いていた。鎧姿のまま紙を扱うのは明らかに不向きだ。頁をめくる指が慎重すぎて、かえってぎこちない。
ジェイレンが椅子へ座ると、彼は一本指で机の端を示した。
「俺が警備をする。君は布を読む。役割分担だ」
「帳簿は?」
「彼が読む」
アニトゥアが無表情で頷く。
「読むというより、戻す、ですね。消されたものを」
記録庫に積まれた古い保管台帳の匂いは、乾いた紙と薄い防虫香が混ざったものだった。アニトゥアは三十年前の台帳から、ひとつの保管番号を指で示す。
「ありました。月白の婚礼衣。製作者、礼装教師エルミナ。完成後三日で保管扱い。その翌週に小火騒ぎ。以後、関連書類が途切れています」
「小火?」ジェイレンが眉を寄せる。
「記録上は小規模です。ですが、その日以降だけ帳簿の扱いが雑です。火で焼けた頁にしては端が整いすぎている」
「抜かれたってことですか」
「その表現がいちばん近いです」
アニトゥアは別の帳簿も重ねて開く。入退室簿、備品貸出簿、修繕依頼書。それぞれの欠け方が、同じ夜の周辺だけ不自然に揃っていた。
パリックが低く言う。
「人の手で消された」
「ええ。焼けたのではなく、抜かれた」
ジェイレンは婚礼衣の保管図を覗きこみながら、胸の内がじわじわと熱くなるのを覚えた。布が歩くことより、こんなに丁寧な仕事をした人の名が、帳簿の中で途切れたままになっていることが許せなかった。
「エルミナ先生は、どんな方だったんでしょう」
呟くと、記録庫の入口で足音がした。アドリアナだった。
彼女は三人の顔と開かれた帳簿を見て、叱責の言葉を投げるかと思われた。だが今日は、それより先にアニトゥアの手元へ視線が吸い寄せられた。
「そこまで見たのね」
「はい」
「見習いまで巻き込む必要はありません」
「すでに巻き込まれています」ジェイレンが言った。
「昨夜、あの衣装は私とパリック様の前に現れました。話していないことがある、と」
アドリアナは机へ近づき、指先で保管番号をなぞった。その仕草だけで、彼女がこの数字を何度も見てきたのだとわかる。
「エルミナ先生は、私の恩師でした」
低い声だった。だが昨日のような拒絶ではない。深く仕舞っていた箱の蓋を開ける時の声だ。
「礼装の針目は、遠くからでも品位がわかる。そう教えてくれた人です。無駄な飾りを嫌い、着る人の背筋がまっすぐ見えることを何より大切にした。手が遅い者には厳しかったけれど、出来るようになるまで絶対に見放さなかった」
ジェイレンは黙って聞いた。アドリアナの視線は帳簿に落ちたままだ。
「けれど死後、先生は別の名前で呼ばれました。貴族の男に溺れて、職務を乱し、局の名誉を損なった女。私は幼かったけれど、その噂がどんな顔で語られていたか覚えています。まるで、先生の縫った美しいものまで汚れたみたいに」
「だから封書を隠したんですね」とジェイレン。
「ええ」
アドリアナは苦く息を吐く。
「真相がどうであれ、また同じように面白がられると思ったから。衣装局ごと、くだらない恋沙汰の見世物にされるくらいなら、沈黙の方がましだと」
ジェイレンは唇を噛んだ。わからないとは言えない。王都では噂の足が速い。しかも足だけでなく、勝手に羽まで生える。けれど、黙っていたら、話したい布はいつまでも歩き続ける。
パリックが机の端へ手を置いた。
「封蝋の件で、家にも照会をかけた」
その場の視線が彼に向く。
「紋章の主は、祖父の弟レオス・グランツ。記録には『放蕩の末に失踪』とある」
「失踪?」ジェイレンが首を傾げる。
「家ではそう処理されたらしい」
パリックは言葉を選ぶように黙り、それから続けた。
「もし本当に、教師役と関係を持ち、何かを起こして姿を消したのなら、うちの家の名も関わる。……正直に言えば、知りたくないと思った」
その声は、昨日の回廊で聞いた時より少し低かった。普段は刃のように真っ直ぐな人間が、自分の足元に落ちた亀裂を見ている声だ。
ジェイレンは彼の前に置かれていた照会書をそっと引き寄せた。
「まだ布の話を聞いていません」
「布の話?」
「帳簿も家の記録も、人が書きます。でも布は、下手に隠そうとすると変なところが残るんです。折り目とか、重みとか、昨日みたいに」
「君は、俺の家が悪い側じゃないとでも言うのか」
「まだわからない、です。でも、わからないうちから誰かを悪い方に決めるのは、縫う前に生地を切るみたいで嫌です」
しばらく、パリックは何も答えなかった。やがて、ほんの少しだけ肩の力を抜く。
「……それは、ずいぶん痛い例えだな」
「布相手だとわかりやすいので」
「俺には十分わかった」
短い会議のあと、四人は台帳だけでなく実物にもあたることにした。保管庫の隅に残っていた補修見本の切れ端、留め具の型紙、古い針包み。ジェイレンはエルミナの見本布へそっと触れ、その返し針の癖を確かめる。表から見えない場所ほど丁寧で、しかも呼吸が詰まっていない。縫い手が追い詰められていたら、こんな伸びやかな針目にはならない。少なくとも、最後の最後まで投げやりではなかった。
「先生は、最後まで手を捨てていません」
そう呟くと、アドリアナは目を伏せたまま頷いた。
「ええ。先生は、どれほど腹が立っていても、布へ八つ当たりすることだけはしなかった」
その言葉は、噂に塗りつぶされる前のエルミナを、この部屋へ少しだけ呼び戻した。
その時、記録庫の外で誰かのひそひそ声がした。
「ほら、また一緒」
「見習いのくせに、騎士様を引っ張り回してるんじゃない?」
「昨日の封書の話、先生の恋人って書いてあったんでしょう。今度はあの子のことだったりして」
沈黙。
ジェイレンの耳が一気に熱くなる。何をどうしたらそんな飛躍になるのか。怒って振り向こうとしたが、隣で椅子が鳴った。パリックが立ち上がる。
廊下へ出ていくのを止める間もなく、彼は戸口の外へ顔を向け、真顔のまま言った。
「誰が先生だ」
それは否定のつもりだったのだろう。だが、間が悪すぎた。
廊下の向こうで短い悲鳴と笑いが混ざり、足音がばたばたと遠ざかる。残されたジェイレンは額を押さえた。
「今のは最悪です」
アニトゥアが即答する。
「否定の仕方が最悪ですね」
アドリアナでさえ、こめかみを押さえていた。
「パリック隊長、もう少し他に言いようが」
「……何が悪かった」
「全部です」
ジェイレンとアニトゥアの声がきれいに揃った。
パリックは本気でわかっていない顔をしていて、それが余計におかしい。緊張で張っていた記録庫の空気が、そこでようやく少しだけほどけた。ジェイレンはこらえきれず、小さく吹き出す。するとパリックが不満そうに眉を寄せた。
「笑うところか」
「はい。かなり」
「不本意だ」
「でも、少し気が楽になりました」
そう言うと、彼は返事に迷ったように目を瞬かせた。そういう顔もするのか、とジェイレンは妙に新鮮に思う。
調査の合間にも仕事は待ってくれない。午後、ジェイレンは楽師用の上着へ飾り紐を通しながら、ふと隣の机を見る。パリックが警備確認のため立ち寄った拍子に、通路へはみ出していたレースをうっかり踏みかけ、彼女に袖を掴まれて止められていた。
「動かないでください」
「止まっている」
「息をするたび揺れるんです」
「息もだめなのか」
「そのくらい繊細なんです」
真顔で言い合う二人を見て、近くの下働きが肩を震わせる。ジェイレンは不本意だったが、自分でも少し笑いそうになった。剣を持つ手は頼もしいのに、レース一枚にこれほど緊張する人も珍しい。
午後の作業に戻ってからも、噂はひそひそと尾を引いた。ジェイレンが保管庫へ向かえば視線がついてくるし、パリックが近くを通れば、なぜか誰かが赤くなる。自分ではなく向こうが照れているのが納得いかない。
それでも調査は進んだ。
夕方、月白の婚礼衣の裾を改めて確かめていたジェイレンは、白糸のあいだに混じる金の粉に気づいた。刺繍の金糸とは質が違う。もっと軽く、花の香りに似たかすかな匂いがある。
「これ、温室の花粉みたいです」
パリックが眉を上げる。
「この北棟で花粉が残る場所は限られる」
アニトゥアがすぐ答えた。
「閉鎖された旧温室があります。北棟のさらに奥。今は立入禁止ですが、三十年前までは衣装の染料用に花を育てていたそうです」
日が落ちる前に、三人は北棟の奥へ向かった。途中でアドリアナも合流する。教師役である彼女がいる方が、見つかっても理由が立つからだという。実際には、彼女自身ももう目を逸らせなくなっていたのだろう。
旧温室の扉は錆びていたが、完全には閉ざされていなかった。中へ入ると、湿り気を失った土の匂いが広がる。天井の硝子はところどころ曇り、夕方の陽を鈍く通していた。かつて花棚が並んでいた場所には、枯れた蔓と朽ちた木枠が残っている。
ジェイレンはしゃがみ込み、床際に散る金の粒を指先ですくった。月白の裾についていたものと同じだ。
「こちらへ」
アニトゥアが奥のベンチ下を示す。
床板の隙間から、小さな針箱が見えた。木の蓋に焼き印された印は擦れているが、かろうじて衣装局の古い紋章だとわかる。ジェイレンが触れた途端、また世界がにじんだ。
見えたのは昨夜のことだった。
誰かがこの温室へ来る。靴音は重くないが、急いでいる。床板を外し、何か帳面のようなものを確かめ、苛立ったように蓋を戻す。顔は見えない。だが袖口に光る小さな階級章が見えた。礼装監督補佐の印だ。
「……今も探してる人がいます」
ジェイレンは息を整えながら言う。
「昨夜、ここへ。帳面を確かめていました。礼装監督補佐の章が見えました」
アドリアナの顔色が変わる。
「モルゲン……?」
礼装監督補佐モルゲン。その名は衣装局の誰もが知っている。局長の機嫌を取りながら、現場の手柄だけを巧く拾う男。祭礼前にも、教師役の配置換えだの効率化だのと言っては口を出していた。
その時、温室の床板が鈍く軋んだ。
ジェイレンの足元だった。
「危ない!」
パリックの声と同時に、床が抜ける。身体が傾き、視界がひっくり返りかけた瞬間、強い腕が腰を引き寄せた。次の瞬間には、ジェイレンはパリックの胸へぶつかる形で支えられていた。
心臓の音が、自分のものか相手のものかわからないほど近い。
「……申し訳、ありません」
「謝る前に掴まれ」
そう言いながらも、彼の手はすぐには離れなかった。温室の高窓から差しこむ夕陽が、ジェイレンの髪へ金粉を落とす。パリックはそれに気づいたらしく、片手を上げて払おうとした。
だが、不器用だった。
髪に引っかかる。
「痛っ」
「すまん」
「ちょ、ちょっと待ってください、絡んでます」
「なぜ髪はこんなに細い」
「髪に文句を言わないでください!」
横でアニトゥアが無表情のまま視線を逸らし、アドリアナは口元を押さえていた。先に吹き出したのはジェイレンだった。張りつめていたものがぷつんと切れ、笑いがこみ上げる。パリックは本気で困った顔をしていて、なおさらおかしい。
「笑う場面ではないだろう」
「そうなんですけど……、今のは、さすがに……」
「隊長。髪は敵ではありません」とアニトゥア。
「覚えておく」
やっと髪がほどけた時には、夕陽はほとんど落ちていた。
その夜、ジェイレンは保管庫の前で立ち止まった。来る、と胸のどこかが告げている。パリックも隣にいる。昨夜より距離が近いのは、偶然ではないだろう。
案の定、闇の奥から月白の婚礼衣が現れた。
今夜のそれは、いつもより迷いが少ない。白い裾が石床をなぞり、まっすぐジェイレンの前まで来る。逃げる気配はなく、むしろ彼女を選ぶように肩口へ布を寄せてきた。
ひやりとした感触が首筋に触れる。
婚礼衣が、ジェイレンの肩へふわりとかかった。
胸元の裏地がめくれ、その内側に赤い糸が走る。見えない手が、夜の中で一針ずつ縫っていく。
――レオスは
――逃げていない
パリックの息が止まる音がした。
ジェイレンは刺繍された文字から、隣の横顔へ視線を移す。彼は何か言おうとして言えず、ただ拳を強く握っていた。家の記録に刻まれた言葉と、布が示した言葉が、正面からぶつかっている。
月白の婚礼衣は、役目をひとつ終えたように静かに裾を下ろした。その白さは冷たくない。むしろ、長いこと言えなかったことを、ようやく伝えられた人の息に似ていた。
ジェイレンはそっと言う。
「曲がっているなら、まっすぐに戻せばいいんです」
パリックが彼女を見る。
「時間がかかっても。ほどくところからでも」
その言葉に、彼はすぐ答えなかった。だが、最後に小さく頷いた。
夜の保管庫に、言葉にならない約束だけが残る。月白の裾は闇の中へ退いていったが、次に辿るべき糸は、もうはっきり見えていた。