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私は、自分が自分じゃないことに気づいた。
鏡の中にいるのは、知らない男。
頭が、追いつかない。
「……これ以上、変な動きをしたら警察に突き出すからな」
お父さんの声がする。
怖い。
でも、それよりも——
この体の方が、怖い。
「母さん! 早く警察を——」
その瞬間、体が勝手に動いた。
気づけば、外に飛び出していた。
逃げた。
理由も分からないまま、
ただ、逃げた。
息が苦しい。
足がもつれる。
どれくらい走ったのか分からない。
気づけば、公園のベンチに座っていた。
「……これ、どうなってるの」
声が低い。
知らない声。
私の声じゃない。
胸が、ざわざわする。
そのとき。
にゃあ……。
足元で、小さな鳴き声がした。
見ると、子猫がいた。
細くて、小さくて、
今にも消えそうな命。
……放っておけない。
立ち上がる。
でも、途中で止まる。
——お金、あるの?
ポケットを探る。
財布があった。
開く。
知らない財布。
知らない名前。
免許証が入っている。
「……誰」
手が震える。
私は、誰になったの?
それでも。
子猫を見捨てることは、できなかった。
コンビニに入る。
視線が怖い。
全部が怖い。
ここにいる全員が、
“私じゃない私”を見ている気がする。
「……これ、お願いします」
声が出る。
でも、違う。
やっぱり、自分じゃない。
「300円です」
普通に会計が終わる。
何も言われない。
何も疑われない。
……当たり前だ。
私はもう、“大久保じゃない”から。
店を出る。
「ねえ、今の人……財布ちょっと可愛くなかった?」
「ギャップってやつじゃない?」
その言葉に、足が止まる。
……私じゃないのに。
“この人”が言われてるだけなのに。
それでも——
少しだけ、嬉しいと思ってしまった。
……やめて。
こんなの、私じゃない。
私は子猫のもとへ戻った。
猫缶を開けると、
夢中で食べ始める。
その様子を見ていると、
少しだけ、心が軽くなる。
でも——
すぐに気づく。
私は、帰れない。
帰る場所がない。
私の部屋も、
私の名前も、
もう——どこにもない。
胸が、苦しくなる。
そのとき。
ふと、思った。
……このまま、この人として生きればいいのかな。
誰とも関わらなくていい。
傷つかなくていい。
それなら——
その考えを、振り払う。
違う。
それは、逃げだ。
私は——
私は、まだ私でいたい。
でも。
どうすればいいのか、分からない。