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「あの……」
声をかけられた瞬間、心臓が跳ねた。
振り返る。
サクラちゃんが立っていた。
「すみません……うちの前で、何か用ですか?」
警戒した目。
一歩、距離を取られる。
……当然だ。
私は、知らない男なんだから。
言葉が出てこない。
喉が詰まる。
何を言えばいいのか、分からない。
「……その子」
サクラちゃんの視線が、腕の中の猫に向く。
「どこで拾ったんですか?」
声が少し強くなる。
私は慌てて口を開く。
「え、あの……ちが、ちがくて……」
うまく喋れない。
頭が真っ白になる。
「その子、うちの猫なんですけど」
——え。
空気が変わる。
サクラちゃんの目が、鋭くなる。
スマホを持つ手に、力が入る。
「……どうして、あなたが持ってるんですか?」
逃げ場がない。
私は、何も言えないまま猫を抱きしめる。
……ももちゃん。
思わず、名前を呼びそうになる。
——ダメ。
分かってるのに。
「……ももちゃん」
小さく、口からこぼれた。
その瞬間。
にゃあ。
腕の中の猫が、嬉しそうに鳴いた。
サクラちゃんの表情が変わる。
「……え?」
一歩、近づいてくる。
「なんで……その呼び方……」
しまった。
頭が真っ白になる。
言い訳が出てこない。
ももちゃんは、私の腕の中で落ち着いたまま、
安心したみたいに目を細めている。
「……この子、人見知りなんです」
サクラちゃんが言う。
「家族以外には、こんなふうに懐かないのに……」
視線が、私に向く。
疑い。
戸惑い。
そして——少しの、違和感。
「……何か、しました?」
低い声。
完全に疑われている。
私は首を振ることしかできない。
違う。
でも、どう説明すればいいのか分からない。
だって私は——
私じゃないから。
沈黙が落ちる。
怖い。
逃げたい。
でも、逃げたら終わる。
そのとき。
ももちゃんが、小さく鳴いた。
私の服を掴むようにして、
離れようとしない。
……やめて。
そんなことされたら。
私は、もっと——
ここにいたくなる。
胸が、ぎゅっと締まる。
それでも。
私は、ゆっくりと猫を差し出した。
「あの……」
声が震える。
「ももちゃん……返すね」
ぎこちない言葉。
自分でも、変だと思う。
サクラちゃんは、すぐには受け取らなかった。
ただ、じっと私を見ている。
「……なんで」
小さな声。
「どうして、その名前……知ってるんですか?」
胸が、痛い。
言えない。
言えるわけがない。
私は、目を逸らすことしかできなかった。
サクラちゃんが、ゆっくりと手を伸ばす。
ももちゃんを抱き上げる。
その瞬間。
ももちゃんは、一度だけ振り返った。
私の方を見て——
にゃあ、と鳴いた。
まるで。
呼んでいるみたいに。
サクラちゃんの視線が、また私に戻る。
「……あなた」
言いかけて、止まる。
何かに気づきそうな顔。
でも、すぐに首を振った。
「……いえ、なんでもないです」
そう言いながらも、
視線は逸らさない。
疑いは、消えていない。
むしろ——強くなっている。
私は、その場に立ち尽くす。
……もう。
戻れないかもしれない。
そんな考えが、頭をよぎる。
そのとき。
サクラちゃんが、静かに言った。
「……また、会えますよね」
優しい声なのに。
どこか、確かめるみたいな響き。
私は、何も答えられなかった。
ただ——
逃げるみたいに、その場を離れた。
背中に、視線を感じながら。
――終わり。
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