昼休みのざわめきの中で、誰かの笑い声が遠くに響いていた。
その笑いが、どこかで遥の名前を混ぜている。
けれど、もう誰も止めない。
日下部は窓際に座り、弁当も開けずに外を見ていた。
教室の空気が、少しずつ“あの頃”に戻っていくのがわかる。
誰も命令していないのに、誰もが動きを合わせ始めていた。
それが怖いのではない。
――もう、慣れている。
遥の机の上には、落書きと破られたプリント。
本人は何も言わず、それを黙って片づけている。
その仕草が、妙に静かだった。
まるで「痛み」を、もう“前提”として受け入れているように。
日下部は立ち上がろうとした。
その瞬間、体が固まった。
視線の端に、蓮司がいた。
何もしていない。ただ、こちらを見ていた。
――一歩でも動けば、全部崩れる。
その感覚を、日下部はもう知っていた。
前に同じように立ち上がったとき、どうなったかを。
遥がどうなったかを。
守るために動くほど、あいつの傷口は増えていく。
誰かが怒るたび、笑うたび、沈黙するたび、遥はその中心に押し戻される。
あいつの地獄は、誰かの行動で形を変えるだけだ。
「……なんで、こんなに静かなんだよ」
思わず、声に出ていた。
誰も聞いていない。
聞いていたとしても、もう誰も興味を示さない。
蓮司が黒板の前で、何気なくチョークを転がす。
その音が合図のように、何人かが笑う。
机の脚が蹴られ、紙くずが飛び、誰かのスマホが小さく鳴った。
そのすべてが、再開のリズムだった。
遥は何も言わない。
顔も上げず、ただ呼吸を整えている。
息をするたび、彼の肩が小さく震える。
それを見ていることしかできない。
日下部は、拳を握り、爪が掌に食い込むのを感じた。
痛みだけが、まだ自分が“外側にいる”ことを教えてくれる。
――俺が動いたら、あいつはまた壊れる。
そう思うことでしか、自分を保てなかった。
正しさよりも、現実を選ぶ。
それがこの教室で生きるということだ。
笑い声がまたひとつ上がる。
遥の席のあたりから。
日下部はゆっくりと目を閉じた。
もし世界に“救う”という言葉があるなら、
それは、この沈黙の中で、息を殺すことかもしれない。
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