教室の空気はどこか乾いていた。
季節のせいじゃない。昨日までとは違う“温度”が、見えないところで流れている。
遥が教室に入ると、数人が小さく笑った。
声は聞こえない。ただ、笑いの形だけが見えた。
誰も目を合わせない。
それでも、全員が分かっている――「また始まった」と。
机の上には、ノートの切れ端。
“おかえり”とだけ書かれていた。
悪意も冗談も、どちらにも見えるその文字に、遥は視線を止めた。
何も言わずに紙を丸め、ポケットに押し込む。
席につくと、後ろの席の男子がわざとらしく机を蹴る。
鉛筆が転がり、足元に落ちた。
拾おうと腰をかがめた瞬間、今度は別の方向から小さな笑いが起きる。
それは笑いというより、“合図”のようだった。
蓮司は教室の中央で、何もしていなかった。
ただ座って、教科書をめくっている。
けれどその沈黙の仕方が、すでに全員の指示だった。
彼が黙っているだけで、誰もが勝手に動く。
それがこのクラスの“秩序”だった。
消しゴムが飛んでくる。
シャーペンが机の上を滑る。
ほんの少しの音と笑い声――そのすべてが、遥を中心に回っている。
教師が入ってきても、何も変わらなかった。
授業の間中、誰かの視線がずっと背中に刺さっていた。
板書の音よりも、その視線のほうがはっきり聞こえる。
昼休み。
弁当を取り出そうとした瞬間、蓮司が静かに言った。
「おい、そっち座れよ」
遥は反射的に体を固くする。
蓮司の指先が、教室の隅を指していた。そこにはゴミ箱がある。
一瞬、笑いが広がる。
教師のいない昼の空間は、すぐ地獄に変わる。
遥は言い返さなかった。
それがいちばん危険なのを知っていた。
黙って従うほうが、まだ壊れないですむ。
蓮司は何も言わない。
けれど、黙っている彼の存在そのものが、全員の「許可」だった。
パンの袋が投げられ、ペットボトルが転がる。
それらが偶然を装いながら、確実に遥を狙っている。
昼の終わり、蓮司が立ち上がる。
「今日はここまで。明日、もっとちゃんとしようぜ」
その声に、誰もがうなずく。
まるで授業が終わった後のように、静かな規律が戻ってくる。
遥は、自分の弁当を一口も食べられなかった。
空になった教室の中で、ただ机に手を置いたまま、ゆっくり呼吸を整える。
その手の甲に、小さなゴミが貼りついていた。
パンくず、砂、紙切れ。
指で払うたびに、それが自分の“存在”のように思えた。
――また、始まった。
その言葉を心の中で繰り返しても、声にはならなかった。
沈黙の中で壊れていく音だけが、遥の中で確かに鳴っていた。
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