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夜の空気はまだ湿り気を帯び、庭先の月光が遥の肩を淡く照らしていた。
膝を抱え、縁側に腰を下ろす彼の横顔を、日下部はじっと見つめる。
無言のまま、風が髪をかすかに揺らした。
「……寒くないのか」
日下部の声は、昨夜よりもわずかに柔らかかった。
胸の奥で抑えきれない動悸を感じながらも、言葉を選ぶ。
「平気」
遥は答えた。短く、冷めた音色で。
だがその声の端に、かすかな震えが混ざっているのを日下部は見逃さなかった。
しばらく二人の間に沈黙が落ちた。
庭を渡る夜風が、木の葉をそっと揺らすだけで、言葉の代わりを務める。
日下部は、頬にかかる月明かりに浮かぶ遥の目の奥に、昨夜の痛みの残滓を感じ取った。
傷と痣は見えないが、視線に映る張りつめた空気で分かる。
「……日下部」
突然、遥が口を開いた。
声はかすれ、震えていた。
日下部はその声に耳を傾け、胸の奥が締めつけられる。
「なんで……俺のこと、気にしてくれんの?」
その問いに、日下部は小さく首を傾げる。怒りでもなく、問い詰めるでもなく、ただ純粋な困惑がそこにある。
「そんなん……ほっとけるわけねえだろ」
言葉は力強くない。
けれど、彼の視線は真っ直ぐに遥を貫いた。
心の奥底で、守りたい、支えたいと願う気持ちがにじむ。
遥は少し肩をすくめ、視線を床に落とした。
わずかに微笑む――だがその微笑みは、安堵でも喜びでもなく、痛みに慣れようとする苦い抵抗の色を帯びている。
「……でも、どうせ俺は……」
言葉は途切れ途切れにしか出てこない。
「守られる資格なんてねえ、って思ってるんだろ」
日下部はそっと、しかし真剣に答えた。
腕を伸ばして、遥の肩に触れようとする。
その手は届くか届かないかの距離で止まる。
「……触んな」
遥の声は低く、かすれた怒気を帯びている。
日下部は頷くが、その手を引くわけではなかった。
指先で肩の温もりを感じるだけで、遥の震えがわずかに落ち着くのを日下部は感じた。
「……分かってる、でも」
日下部は息を整えながら続ける。
「お前がどんなに壊れてても、俺は……放さねえ」
遥は目を伏せた。
頬にかかる髪を手で払うと、涙が一粒零れた。
悔しさと痛みと、そしてほんの少しの救いが混ざった涙だった。
「……ありがと」
かすれた声は風にかき消されそうになったが、日下部は確かに聞いた。
言葉は少ないけれど、胸の奥に静かに響く信号だ。
日下部はゆっくりと、しかし確実に手を伸ばした。
肩に触れ、握るのではなく、そっと支える。
遥は固まったまま、しかしその温もりに微かに体を預ける。
夜は深く、二人の間に静かな時間が流れる。
痛みも恐怖も、まだ完全には消えていない。
だけど、その小さな温もりが、遥にとってほんの少しだけ未来を感じさせた。
日下部の存在は、これまで抑え込まれてきた感情を、ゆっくりとほぐしていくようだった。