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#ワンナイトラブ
#一途な思い
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仮承認の紙を店の引き出しへしまった翌日、イドゥレはスノードームを磨いていた。丸いガラスの内側に、小さな家と白いポスト。祖母がいつ買ったのかもわからない品なのに、不思議と店の景色に似ている。
「底、開きそうですね」
モリネロが横から覗きこんだ。工具箱から細い器具を出し、留め金をそっと持ち上げる。イドゥレが息を止めて見守ると、底板の裏から薄い紙が一枚折り込まれていた。
『白いポストは、家族の形を決める場所ではなく、ほどけたものを結び直す場所』
祖母の字ではない。もっと硬く、けれど丁寧な筆跡だった。
「叔父の字です」
モリネロは紙を見るなり言った。
「じゃあ、祖母と叔父さんで」
「確かめます」
彼は工房跡から持ち帰った工具箱を開けた。裏蓋の内側を軽く叩くと、隠し板のように薄い木片が外れ、そこから同じ紙がもう一枚出てきた。こちらには、わずかに違う一文が続いている。
『血がつながらなくても、帰る場所はつくれる』
二人はしばらく声が出なかった。
祖母と叔父が何を思ってこの建物を共有したのか、ようやく輪郭が見えた気がした。喫茶店と靴工房。食べる場所と直す場所。どちらも、ほどけた日常を結び直すための手つきだったのだ。
そのころ店では別の小さな騒ぎも進んでいた。ラウシャンが仕込みを一人で任される日である。サムソは「任せるなら派手に失敗しろ!」という役に立つようで立たない励ましを飛ばし、タニアは原価表を片手に現実的な助言をし、イドゥレはあえて口を挟まない。
ラウシャンはシュー生地を一度しぼませ、ジャムを床へ落とし、絞り袋の口まで破った。それでも逃げなかった。泣きそうな顔で道具を洗い、もう一度計量し直し、閉店ぎりぎりには形の揃わない小さな焼き菓子を皿に並べた。
「売るのは無理でも、まかないなら」
差し出された皿を食べたイドゥレは、少し黙ってから言った。
「次は売れます」
ラウシャンの目が丸くなり、それからじわじわ緩む。店の中で、誰かが逃げずに残るたび、白いポストの灯りは少しだけ強くなる気がした。
夜の片づけで、イドゥレはスノードームの紙をもう一度読み返した。家族の形を決める場所ではなく、ほどけたものを結び直す場所。祖母は最後まで、血のつながりを誇るようなことを言わなかった。むしろ、誰でも座れる椅子を増やし、誰でも手紙を入れられるように投函口を磨いた。叔父もまた、履きつぶした靴を持ってきた相手に身なりを問わなかったのだろう。
白いポストが守ってきたのは、きれいに整った家族ではなく、ほどけたあとでやっと手を伸ばせる人たちだった。その考え方を知った途端、イドゥレは契約結婚という自分たちの始まりすら、少し違う角度から見られる気がした。最初は書類でも、生活が重なれば、結び直されるものがあるのかもしれない。
夕方、マルフリズルが再び来た。今度は封筒を一つ置いていく。
「正式な買収条件書です」
「いりません」
「読むだけなら損はないでしょう」
彼女は白いポストの投函口を一瞥した。
「古い店の物語は、人の心を動かします。でも効率には負ける」
その言い方に、イドゥレの指先が冷える。
「ここは物語だけで立ってるわけじゃありません」
「ええ、そうでしょう。けれど数字に直せないものを守り続けるのは、たいてい疲れる」
マルフリズルはそう言って帰った。
店じまいのあと、イドゥレは封筒を開けずに引き出しへしまった。代わりにスノードームを逆さにする。細かな雪が舞うたび、ガラスの向こうの白い家が少し見えなくなり、やがてまた現れる。
見えなくなる時間があるからこそ、見えたときに信じられるものもあるのかもしれない。