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白波 灯
219
鬼霧宗作
303
寝室の扉を叩かなかった。
中で何が起きているのか、今すぐこの目で確かめたかった。怒鳴って扉を蹴り、二人を引きずり出したい。
でも、踏み込んだら自分が何をするか分からない。それが怖かった。
私が壊れるところまで、二人に見せたくなかった。
私は廊下の壁へ背を預け、スマートフォンの録音を開始した。
「お姉ちゃんとは、いつ別れるの?」
莉央の声。
「今は無理だ。親父の病院がある」
「真帆さんには、離婚するって言ったんでしょう」
「どこで聞いた」
「知ってるよ。妊娠してることも」
「莉央ちゃんには関係ない」
「私なら、夫を騙してあなたの子を産むなんてしないよ」
否定はなかった。
「千紘と離婚しても、すぐ再婚できるとは限らない」
「でも、私といる方が楽でしょう?」
短い沈黙のあと、遼介が答えた。
「ああ」
「お姉ちゃんみたいに、何でも正しくなくていいし」
二人の笑い声が重なった。
私は録音を止め、玄関へ向かう。鞄を持ち、外へ出てから橘へ連絡する。
『夫と妹が施錠した寝室にいます。会話を録音しました』
すぐに電話が掛かってきた。
『今夜は安全な場所へ移ってください。録音は編集せず保存を。現場へ踏み込む必要はありません』
「家を出たら、私が不利になりますか」
『一時的な退避で直ちに不利にはなりません。明日、第三者同席で私物を取りに戻りましょう』
私は実家へ戻った。
母へ録音を聞かせると、最後まで黙って聞いていた。再生が終わったあと、両手を膝の上で強く組む。
怒鳴ると思っていた。莉央を庇うかもしれないとも、ほんの少しだけ怖かった。
でも、母が最初に考えたのは、私を安全に家から出すことだった。
「明日、私も行く」
すぐ伯父へ連絡し、事情を必要な範囲だけ説明した。
「莉央の不倫を親戚へ広めたいわけじゃない。千紘が安全に荷物を持ち出すため、玄関にいてもらうだけ」
「お母さん、そこまでしなくても」
「遼介さんは、あなたが一人で来ると思っているでしょう。今夜、莉央と二人で口裏を合わせる時間もある」
母の声には、怒りより警戒があった。
私は録音ファイルを複製し、日時を付けて橘へ送った。元データは触らず、クラウドと外付けの記録媒体へ保存する。
作業を終えると、手が震え始めた。
寝室は、結婚してから三年間、私がいちばん無防備になれた場所だった。
当直明けに遼介が遮光カーテンを閉めてくれたこと。熱を出した夜、何度も水を替えてくれたこと。休日の朝、二人で遅くまで眠ったこと。
大切だった記憶が次々に浮かぶ。
その同じ部屋で、今は妹と笑っている。
……どうして、私の思い出の中へまで入ってくるの。
「私、明日あの部屋へ入れるかな」
「入らなくてもいい」
「証拠があるかもしれない」
「証拠より、あなたが壊れないことの方が大事」
「弁護士なら、証拠を優先すると思ってた」
「橘先生は、そんなことを言ってないでしょう」
温めた牛乳が机へ置かれた。
「誰かの不倫を証明するために、被害を受けた人が全部見なきゃいけないわけじゃない」
私はカップへ口を付けた。甘くもない牛乳が、乾いた喉へ重く落ちる。
「莉央のこと、どうする?」
「本人へ帰る意思がなくても、一度連れてくる。成人だから、その後また出ていくなら止めきれない」
「私のために、莉央を閉じ込めないで」
「しない。ただ、今夜のことを見なかったことにもしない」
母は、妹を守るために私へ我慢させることも、私を守るために妹の自由を奪うこともしなかった。
翌朝、ほとんど眠れないまま実家を出る。
伯父の車内で、必要なことだけ確認した。
声を荒らげない。
身体へ触れられそうになったら離れる。
持ち出すのは私物と共同書類の写しだけ。
莉央の荷物を勝手に運ばない。
怒りをぶつけるためではなく、夫婦の家から安全に離れるために戻る。
母と伯父に付き添われ、自宅へ戻った。
伯父には寝室へ入らず、玄関近くで待ってもらう。男性の親族がいるだけで、遼介が腕を掴むような行動へ出にくくなる。
呼び鈴を鳴らしても返事がない。合鍵で入ると、リビングには二人分のコーヒーカップが残っていた。
寝室の扉を叩く。
「遼介。莉央。開けて」
室内で物音がし、しばらくして鍵が外れた。
扉を開けた遼介は、シャツのボタンを掛け違えている。髪も乱れていた。
「朝から何だ。大勢で押しかけて」
「私物を取りに来た。莉央には出ていってもらう」
遼介の肩越しに、莉央がベッドの端へ座っているのが見えた。私のドレッサーには化粧品が広がり、床には遼介のベルトと莉央のイヤリングが落ちている。
「お姉ちゃん、誤解だよ」
「何を誤解したの?」
「口紅を借りようと思って入っただけ」
「夜中から朝まで?」
「眠くなって」
私は莉央の前へ、退去確認書の写真を表示した。
「水漏れはなかった。部屋は来る前に解約していた。会社も辞めていたね」
「勝手に調べたの?」
「お母さんが大家さんへ確認した」
「ひどい。住む場所がないって言ったら、お姉ちゃんは見下したでしょう」
「だから嘘をついて、私の夫へ先に許可を取った?」
遼介が間へ入った。
「莉央ちゃんは追い詰められていたんだ。責めるな」
「来る前から相談を受けていたのね」
「ああ」
「私の家へ住ませる話を、私抜きで決めた」
「君は忙しいから」
「忙しければ、妻へ知らせなくていいの?」
答えはなかった。
母が莉央のキャリーケースを引き寄せる。
「荷物をまとめなさい」
「帰らない」
「姉の家へ嘘をついて入り、姉の夫と寝室へ籠もる娘を置いて帰れない」
「私はお義兄さんに選ばれたの」
母の頬が強張った。
「妻がいる男に隠れて会うことを、選ばれたとは言わない」
「お姉ちゃんは家にも帰らない。食事も作らない。妻の役目を捨てたでしょう」
「不倫した夫の世話を続けろと言うの?」
「私はできるよ」
こちらへ向き直った。
「家にいて、ご飯を作って、疲れて帰った人を迎えられる。医者じゃなくても、私の方が妻に向いてる」
「あなたも同じ考え?」
「今は答えられない」
「答えられないことが答えね」
母が莉央へ、自分で荷物をまとめるよう促した。莉央は抵抗したが、伯父が玄関にいるのを見て、段ボールを廊下へ運び始めた。
その間に、私は橘へ提出した一覧を確認しながら、自分の物を集めた。
医師免許証の原本。専門医認定証。父の形見の腕時計。母が贈ってくれた食器。研修医時代から書き込んできた医学書。
棚の奥から、結婚式のアルバムが出てきた。
白無垢ではなく、真帆と選んだウェディングドレス。写真の中で、真帆は私のベールを直し、遼介は照れた顔で隣に立っている。
持ち上げた指が止まった。
「それも持っていくの?」
莉央が背後から覗き込む。
「今は置いていく」
「いらないなら、捨ててもいい?」
「あなたが触る物じゃない」
アルバムを元の棚へ戻した。
この思い出を残すのか、捨てるのか。そんなことまで今日決めなくていい。
今の怒りだけで捨てたら、いつか後悔するかもしれない。遼介に壊されたからといって、私まで自分の過去を乱暴に扱いたくなかった。
伯父に確認してもらいながら、持ち出した箱の数と内容を記録した。遼介の書類も、莉央の私物も触れない。共同名義の家の鍵も、売却や財産分与が決まるまでは勝手に返さない。
寝室の扉は開いたままだった。
交換したばかりのシーツと、莉央が使った香水の甘い匂い。三年間眠った部屋なのに、敷居を越えられなかった。
必要な服は客間へ移されている。私は寝室へ入らず、伯父に箱を玄関まで運んでもらった。
夫婦として暮らした家から、自分の人生に必要な物だけを選び出す。
段ボールへ蓋をするたび、胸の内側にあった『戻るかもしれない』という道が、一つずつ塞がっていった。
靴を履く前、莉央が私を振り返る。
「家を出ても、お義兄さんとは別れない」
「好きにすればいい。ただし、私の家へは二度と入れない」
「そのうち、お姉ちゃんの方が完全に追い出されるよ」
扉が閉まった。
静かになった玄関で、遼介のスマートフォンが光る。
画面には莉央の名前が表示されていた。
『今夜、いつもの場所で待ってる』
《《いつもの場所》》と呼べるほど、二人は以前から会っていた。
コメント
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読み終えました…すごく重くて、でも真帆さんの一歩一歩がちゃんと胸に残るお話でした。録音から実家へ戻る決断、荷物の準備とそのときの自制心——怒りに流されず「今は置いていく」と結婚アルバムを元の場所へ戻したところが、本当に真帆さんらしいと思います。怒りだけで過去を乱暴に扱わないって、ものすごく難しい決断ですよね。母が「証拠よりあなたが壊れないこと」と言ったセリフにも胸が詰まりました。連載続きが気になります。