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「明日のテーマは“過去”――だそうだ」
帰りのHRが終わっても誰も立ち上がらない教室で、誰かがそう告げた。声にはもう楽しげな芝居すらなかった。ただの習慣、通達。それだけで十分に意味が伝わるほど、“いじめゲーム”はこの学年に浸透していた。
教師はそれを咎めない。というより、見ないふりをする。けれど、その実態はもっと狡猾だった。
保健室に逃げ込んだ生徒には、「しんどいときは来ていい」と優しく言いながら、担任の指示で記録をつけ、”逃げた”時間をこっそり通知している教員。観察する視線だけが優しくて、手は絶対に差し伸べない。まるで水槽の魚でも見ているような眼差しだった。
ごほうびが発表されたのは、週の終わりの金曜だった。
「今週のトップは──神谷、白川、三井。特別面談の権利が与えられます。これは、今後1週間の“免責”を含みます」
免責。つまり、次週は加害者リストから外される、ということだった。罰ゲームの回避権。制度ではない。だが、確かに“報酬”がそこにあった。
「日替わりで、“明日は身体”、その次は“人格”、その次は“過去”って。なんか飽きるんだよね。同じテーマ続けると」
笑いながら白川が言った。飽きたのは、加害そのものではない。加害の形。創意工夫と変化、それがこの娯楽の肝だった。
「遥、お前の“過去”って何? まじで空白なんだけど。墓でも暴く?」
「……」
遥は何も言わなかった。ただ、窓の外を見ていた。笑ってもいない。怒ってもいない。死んだみたいに、黙っている。
その沈黙を、誰も恐れない。むしろ、傷を深く抉ったことの証だと喜ぶのだ。
だが、一人だけ違った。
「いい加減にしろよ」
そう言ったのは、日下部だった。
教室に沈黙が走る。笑いが消える。静かすぎて、空気が軋む音すら聞こえそうだった。
「テーマだとか、点数だとか、そういうので人の過去を……お前ら、ただの悪趣味だろ。教師も、止める気ねえくせに」
その声は、怒りというより呆れに近かった。
日下部もまた、すでに標的になっていた。保健室でも、生徒指導でも、教師たちは彼を「問題児」と書類に記し、口では「気になる子」と呼んだ。だから彼が何を言っても、それは“問題児の戯言”として処理される。
けれど、それでも抗った。
遥が、それに反応したのは放課後だった。誰もいなくなった教室の隅、日下部のもとへ歩み寄った。
「……お前、バカなのか?」
それが遥の第一声だった。抑揚のない声。感情の輪郭を殺したような、壊れたモノトーン。
「正論なんて、もう誰も聞いちゃいない」
「バカでも、嘘は言わねえよ」
日下部は言った。
「お前の“過去”なんて、あいつらの娯楽じゃねえ。俺には、そう見えた」
遥は、その言葉に表情を変えなかった。ただ、一瞬だけ、視線を逸らした。いつもなら睨むか、嗤うか、それとも無視するか。でもそのどれでもなく、目を逸らす。それはまるで、言葉の奥に刺さった何かを、見てしまったように。
「明日、“過去”を聞き出されるのはお前だ」
「かもな」
「耐えられると思ってる?」
「わかんねえ。でも、お前が黙って傷つけられるのよりはマシだ」
しばらく沈黙が続いた。
遥は、何も返さなかった。ただ、帰り支度もせず、窓の方に再び顔を向けた。
その横顔は、壊れていた。とっくに壊れて、笑えなくなった顔。だけど、笑いものにもされない強情さだけが、そこにあった。
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