(もしかしたら、浮気調査の人?)
吉田美希の頭に、背後に纏わりつく黒いセダンが探偵社の素行調査員ではないかという考えが浮かんだ。賢治との不倫関係を暴こうと、誰かが雇ったのかもしれない。だが、こんなにあからさまに後を追ってくるだろうか? 彼女の心臓はまだ激しく鼓動し、脇に滲む汗が冷たく感じられた。
次の瞬間、脳裏を今後の不安が駆け巡る。
(やだ、不倫がバレちゃったらどうしよう!)
賢治が綾野家に婿養子として入る際、美希は四島工業から手切金として100万円を受け取っていた。あの約束を反故にしたとなれば、懲戒解雇は免れないだろう。
彼女の軽自動車が県道を走る中、頭の中は最悪のシナリオで埋め尽くされる。正妻、綾野菜月への慰謝料支払い。家族や同僚の冷たい視線。すべてが一気に崩れ落ちる恐怖が、彼女を締め付けた。
(あとは、あとは!?)
美希は自分の迂闊さを呪った。不倫が露見するなんて、想像もしていなかった。無我夢中でアクセルを踏み、一時停止の道路標識でハンドルを握る手が震える。恐る恐れルームミラーを覗くと、黒いセダンの姿はなかった。ほっと安堵の溜めがこまり、彼女はシートにもたれかかった。
(気のせい、気のせい、たまたま同じ方向だっただけ)
左にウィンカーを出し、大通りに合流すると、遠くに四島工業株式会社の看板が見えてきた。来客用の茶菓子を買いに出かけた助手席には、有名和菓子店の紙袋が無造作に置かれている。廃墟の駐車場での情熱の時間も、黒いセダンの恐怖も、まるで夢のようだった。
(あぁ、ドキドキした…)
美希はさくらんぼのような唇を軽く噛み、心を落ち着けようとした。だが、その瞬間、ショルダーバッグからけたたましく鳴り響く携帯電話の音に、彼女は飛び上がった。
LINE通話ではない着信音。それは、社長からの直々のお叱りかもしれない。
(今日は早かったのにな、ちぇっ)
四島工業の駐車場に車を停め、ブレーキを踏んだ美希は、震える手でピンクの携帯電話を取り出した。画面を見つめ、彼女は息を飲んだ。
「やだ、だれ、これ…」
発信者番号は非通知。よくある詐欺や悪戯の着信かもしれない。だが、その無機質な文字からは、なぜか禍々しい気配が漂い、彼女の手が震えた。
あの黒いセダンの女性の深紅の唇が、ルームミラーに映った歪んだ笑みが、頭に蘇る。サングラスの奥の視線が、まるで今も彼女を追っているかのようだった。
美希は電話に出るべきか迷った。指が画面を滑り、受話ボタンに触れそうになるが、恐怖がそれを押しとどめる。駐車場の周囲を見回すと、夕暮れが近づく空の下、四島工業のビルが無表情に佇んでいる。社員たちの車がまばらに停まり、普段の日常がそこにあるはずなのに、彼女の心は孤立していた。
(まさか…賢治さんの奥さん? それとも…)
黒いセダンの女性の正体はわからない。だが、彼女が美希の秘密を知っているような確信が、胸を締め付ける。賢治との関係、手切金の約束、すべてが明るみに出たら、彼女の人生は終わるかもしれない。 携帯電話は鳴り続け、駐車場の静寂を切り裂く。美希は深呼吸し、意を決して画面を無視した。着信が切れると、車内に重い静けさが戻る。
彼女はバッグからリップを取り出し、震える手で唇に塗った。さくらんぼのような色が、鏡に映る自分の顔にわずかな自信を取り戻させる。 だが、スマホが再び振動し、画面に新たな通知が点灯した。非通知からのメッセージ。美希の指が凍りつき、画面をタップする勇気が出ない。夕陽がビルのガラスに反射し、駐車場に赤い光を投げかける。
(どうしよう…)
美希はハンドルを握り直し、車を動かすべきか迷った。だが、どこへ行っても、あの黒いセダンの影が追いかけてくる気がしてならなかった。
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