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手芸部の部室は、放課後の私たちの「隠れ家」になった。 部員が私一人しかいないのをいいことに、航くんは毎日のようにやってきては、窓辺の特等席でカメラを構える。
私は静かに布を裁ち、彼は静かにシャッターを切る。 時折、カシャ、という乾いた音が響く以外は、西日の匂いがする沈黙が流れていた。
「……ねえ、何撮ってるの?」
ある日、たまらなくなって声をかけると、航くんはファインダーから目を離さずに答えた。
「空。……っていうか、空の境界線かな」
彼は窓の外、オレンジ色に溶けゆく街並みと、深い青に染まり始めた空の境目を指差した。
「あそこは、どこまでも繋がってるように見えるけど、本当は誰にも触れない場所なんだ」
彼の言葉は、いつも少しだけ難しくて、どこか遠い。 私は手元にある、ピンク色の刺繍糸を見つめた。 私の世界は、指先で触れられるこの数センチの布の中にあるのに。
「……これ、使って」
私は、使い古しの自由帳を一冊、彼の前の机に置いた。 表紙には、余ったフェルトで作った小さな飛行機のアップリケを貼り付けておいた。
「なに、これ。交換日記?」
航くんが可笑しそうに眉を上げた。
「日記じゃないよ。……言葉にできないこととか、撮った写真のこととか、何でも書いていいノート。私がいない時に来ても、ここに何か残してくれたら、繋がっている感じがするでしょ?」
彼は一瞬、呆れたような顔をしたが、やがてアップリケの飛行機を指先でなぞった。
「……ふーん。横の糸は、繋ぎ止めるのが仕事だもんな」
その日はそれ以上、何も話さなかった。
翌日。私が部室の扉を開けると、航くんの姿はなかった。 けれど、机の上にはあのノートが開いたまま置かれていた。
最初のページには、走り書きのような文字で、たった一行。
『今日の夕日は、昨日のより少しだけ、泣きそうな色をしていた。』
その下に、小さなセロハンテープで、一本の赤い糸が貼り付けられていた。 私が昨日、ミシン糸の整理をしていた時に落としたものだろう。
胸の奥が、ちくりとした。 まるで、歌詞にある「ささくれ」に触れたような、小さな痛みと温かさ。
「なぜ めぐり逢うのかを……」
私たちはまだ、お互いの過去も、抱えている孤独も知らない。 ただ、このノートという「布」の上に、一編ずつの言葉を織り込み始めたばかりだった。
#糸
#糸