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#糸
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その日、部室の窓から見える空は、いつものオレンジ色ではなかった。 重く垂れ込めた灰色の雲が、遠い街の境界線を塗りつぶしている。
「……戦争が、始まるんだって」
航くんの声は、ひどく冷たかった。 いつものようにカメラを構えることもなく、彼はただ、窓の外を見つめていた。 机の上には、あの交換日記のノートが開かれたまま。
「戦争……? でも、私たちはまだ、高校生だよ」
私の震える声に、彼はゆっくりと振り返った。 その瞳には、いつもの自由な空の色ではなく、深い絶望の影が落ちていた。
「縦の糸は、真っ直ぐでなきゃいけないんだ。……国のために、空を飛べって言われる。俺が飛びたかったのは、こんな汚れた空じゃないのに」
航くんの家は、代々軍人を出してきた家系だった。 彼が「遠い空」に憧れていたのは、自由になりたかったから。 けれど今、その空は彼を縛り付ける鎖へと変わろうとしていた。
私は、震える手で彼の制服の袖を掴んだ。 そこには、私が昨日丁寧に繕った、あの紺色の糸の跡がある。
「行かないで……航くん。糸が、切れちゃうよ」
「どこにいたの」「遠い空の下」
これまでは、放課後の校舎と自宅の距離でしかなかったその言葉が、これからは「生と死」の境界線を隔てた距離になろうとしていた。
航くんは、私の手をそっと解くと、ポケットから小さなハサミを取り出した。 そして、机の上に置かれた赤い糸——昨日彼がノートに貼り付けた、あの糸を、ぷつりと切った。
「結。……俺たちが織ってきた布は、こんなに脆かったんだな」
「なぜ めぐり逢うのかを、私たちは何も知らなかった」
平和な時代に、ただ恋をするために出会ったと思っていた。 けれど、運命という名の巨大な機織り機は、私たちの意思など関係なく、残酷な模様を刻み始めようとしていた。
「……待ってる。何年でも、待ってるから」
私の言葉に、彼は答えなかった。 ただ、ノートの最後のページに、震える文字でこう書き残した。
『仕合わせを、祈る。』
それが、私たちの「青春」が終わり、「生きてゆく物語」へと変わった瞬間だった。