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保谷東
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「私が漕いでみたい!」
「ああ、いいよ」
圭はオールの持ち手を美花に預けると、彼女は、おぼつかない様子で漕ぎ始めた。
だが、いくら漕いでも、二人が乗っているボートが、なかなか前進しない。
挙げ句の果てには、水面上でボートが、その場で回転してしまった。
「あれ…………前に進まないよぉ…………おかしいなぁ……ハハッ……」
「…………俺が漕ぐ」
彼女が目尻を下げながら、照れ笑いを圭に向けると、彼は大きくため息をつき、オールを掴んで、ゆっくりと漕ぎ始めた。
緩やかなスピードでボートが前進し、小波を立たせながら、圭と美花を乗せたボートは、池の中央へと向かう。
「あ! 降ってきたっ」
「…………降ってきた? 何が降ってきたんだ?」
美花は、圭が漕ぐボートに揺られながら、池の周りを見渡していたかと思うと、トートバックから小型の細長い機械のようなものを引っ張り出す。
(彼女、何をしようとしているんだ……?)
圭は、ボートを漕ぎながら、美花の様子を伺う。
彼女は、手にしている機器を操作した後、マイクのように持ち、歌い始めた。
(…………マジ……か……)
陽光を浴びながら、蕩(とろ)ける笑顔を浮かばせて歌う彼女の表情に、オールを掴む圭の手が、いつしか止まっている。
美花が『降ってきた』と言っていたのは、旋律の事だろう。
まるで、空から舞い落ちた音符を、身体中に纏ったような美花の声は、圭が想像していた以上に、澄んだ声色。
(ヤバい……。俺…………)
ギャルっぽい外見とは裏腹に、こんな一面があったのか、と気付かされた彼。
池の中央で、音に祝福されたかのような、嬉しさを溢れさせている美花の顔立ちに、圭の鼓動が、大きく弾んでいた。
昨年のクリスマスの夜、ひょんな事から美花と出会って、約半年。
(俺………やはり……彼女の事……)
透明感のある歌声で、降り注ぐメロディを唇で紡ぐ美花を、彼は、ただ見つめる事しかできない。
女神を思わせる彼女の顔立ちが、圭の胸中に埋め尽くされていった。