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第6話 夜明け前の市場
町が起きる前に、市場はもう動いていた。
まだ道は暗い。
けれど、市場の中には小さな灯りがいくつも並び、
木箱の音と、
水を流す音と、
誰かの低い声が、
朝より先に歩き出していた。
磁馬は市場の入口で立ち止まった。
冷たい空気が頬に触れる。
野菜の土の匂い。
魚の匂い。
濡れた木箱の匂い。
湯を沸かす匂い。
まだ客はいない。
でも、客を迎える準備だけが、
忙しく息をしている。
「いいなあ」
磁馬は小さく言った。
朝になった市場もいい。
けれど、
朝になる前の市場は、
もっと描きたかった。
まだ誰にも見られていない顔をしている。
磁馬は端の木箱に腰を下ろし、
布をほどいてスケッチ帳を開いた。
ペンを出す。
小銭袋を確かめる。
訳機を奥へ押し込む。
鞄の留め具を触る。
一つ。
二つ。
三つ。
ある。
磁馬は描き始めた。
箱を運ぶ影。
並べられる大根。
水に濡れた床。
まだ開いていない店先。
奥で湯気を立てる釜。
線を置くたび、
市場の音が少しずつ紙に入っていく。
「そこ、座ると邪魔だよ」
声がした。
磁馬が顔を上げると、
緑の作業着を着た少女が立っていた。
短く結んだ髪。
腕まくりした手。
眠そうな目。
けれど、
その手はもう働く形をしていた。
「邪魔?」
磁馬は少し横へずれた。
少女は木箱を抱え直した。
「半分邪魔」
「半分なら、半分どく」
磁馬はもう少し横へ動いた。
少女は少し笑った。
「何してるの」
「描いてる」
「市場を?」
「うん。準備中の市場」
「開いてから描けばいいのに」
「開く前がいい」
「変なの」
「よく言われる」
少女は木箱を置いた。
「私は六花」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたい」
「よく言われる」
六花はスケッチ帳をのぞいた。
「野菜、まだ並べてないよ」
「並べる前も描く」
「土ついてるし」
「そこがいい」
六花は不思議そうな顔をした。
それから、木箱から葉のついた野菜を取り出し、
一つずつ台に並べ始めた。
磁馬はその手を描いた。
野菜を持ち上げる手。
傷みを確かめる目。
曲がった葉を前に向ける指。
市場は、
商品が勝手に並ぶわけではない。
誰かの手が、
朝の形を作っている。
奥から大きな声が響いた。
於田縫紀
7
「水、流すぞ」
魚の箱の前で、
灰色の前掛けをつけた男が水を流していた。
日に焼けた顔。
太い腕。
低い声。
水が床を走り、
磁馬の足もと近くまで来る。
磁馬はあわててスケッチ帳を持ち上げた。
男が気づいて声をかける。
「濡れるぞ」
「ありがとう」
「絵描きか」
「たぶん」
「たぶんで市場に座るな」
六花が笑った。
「源蔵さん、この人、開く前を描きたいんだって」
源蔵は魚箱を持ち上げながら言った。
「物好きだな」
「よく言われる」
磁馬は少しだけ笑った。
源蔵は魚を並べ始めた。
魚の腹が灯りを受けて光る。
氷の粒が水に変わる。
包丁の音が、朝の前の静けさを細く切る。
磁馬は息をひそめて描いた。
その時、
足もとに置いていた布包みが、
水の流れで少し動いた。
中には、予備の紙が入っている。
磁馬はすぐに手を伸ばした。
届いた。
けれど、
布包みの端から小さな紙片が一枚滑り出した。
紙片は水の上に乗り、
市場の床の溝へ向かって流れた。
「落ちた」
六花が言った。
磁馬は立ち上がった。
「探す」
「紙一枚だよ」
「紙一枚でも」
「見つかるまで帰らない?」
「うん」
六花は少し目を丸くしたあと、
すぐに水の流れを追った。
「こっち」
源蔵も水を止めた。
「溝に入る前なら拾える」
紙片は床の細い溝の近くで、
野菜の葉に引っかかっていた。
磁馬が手を伸ばす。
その前に、風が通った。
市場の入口から入った冷たい風が、
紙片をまた動かした。
ひら。
紙片は葉から離れ、
木箱の下へ入った。
磁馬はしゃがんだ。
暗い。
六花が木箱を少し持ち上げる。
「ここ?」
「たぶん」
源蔵が灯りを向ける。
木箱の下には、
紙片と、
小さな葉くずと、
水滴があった。
磁馬は指でそっと紙片をつまんだ。
濡れている。
でも破れていない。
「見つかった」
六花が息を吐いた。
「早かったね」
「ありがとう」
源蔵は水をまた流しながら言った。
「市場では小さいものほど流れる。気をつけろ」
「うん」
磁馬は紙片を布に挟んで乾かした。
そして鞄を確かめる。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
布包み。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
市場の上の暗さが少しずつ薄くなってきた。
まだ朝ではない。
でも、
朝が市場の外で待っている気配がした。
六花は野菜を並べ終え、
台の前で背伸びをした。
「お腹すいた」
磁馬はすぐに顔を上げた。
「僕も」
源蔵が笑った。
「働いてないのに腹は減るんだな」
「描くと減る」
「なら、これ食え」
源蔵は小さな焼き魚を紙に乗せてくれた。
六花は奥から温かい飯の小さな包みを持ってきた。
「朝の残り」
磁馬は少し遠慮した。
「いいの?」
六花は言った。
「紙一枚であんな顔する人が、お腹すいた顔してたら気になる」
源蔵もうなずいた。
「食ってから描け」
磁馬は両手で受け取った。
焼き魚と飯。
冷たい市場の中で食べると、
とても温かかった。
「うまい」
六花は笑った。
「早朝市場の味だね」
源蔵は少し得意そうに魚箱を動かした。
食べ終えるころ、
市場の入口が明るくなり始めた。
最初の客が来る。
買い物かごを持った人。
料理屋らしい人。
急ぎ足の人。
眠そうな人。
準備中だった市場が、
少しずつ店の顔になる。
六花の声が変わる。
「いらっしゃい」
源蔵の声も通る。
「今日はいい魚だ」
さっきまでの静かな手つきが、
今度は客を迎える動きになっていく。
磁馬はそれを描いた。
準備の市場。
開く市場。
声が増える市場。
同じ場所なのに、
時間で顔が変わる。
紙の中では、
夜明け前の市場だけが、
少し長く残った。
まだ客のいない台。
並べられる前の野菜。
水を流す源蔵。
木箱を抱える六花。
紙片を探す三人。
そこへ、
朝の人影が少しずつ重なっていく。
六花が絵をのぞいた。
「私、眠そう」
「眠かった?」
「眠かった」
「じゃあ合ってる」
六花は笑った。
源蔵も絵を見た。
「水の音までありそうだな」
「少し入った」
「絵に?」
「うん」
源蔵は首をひねったが、
少しだけ笑った。
磁馬は小さな紙を二枚出した。
一枚には、
木箱を抱える六花を描いた。
緑の作業着。
腕まくりした手。
まだ開く前の市場。
もう一枚には、
水を流す源蔵を描いた。
灰色の前掛け。
魚箱。
床を走る水。
六花の絵では、
野菜の葉が少しだけ朝の光へ向かって揺れていた。
源蔵の絵では、
床の水が細く流れ続けていた。
「くれるの?」
六花が聞いた。
「手伝ってくれたから」
「紙片探し?」
「うん」
源蔵は絵を受け取り、
店の壁を見た。
「ここに置くか。市場が開く前だけ見える場所に」
六花は自分の絵を胸に抱えた。
「私は家に持って帰る」
磁馬は鞄を持った。
スケッチ帳をしまう。
ペンケースをしまう。
小銭袋をしまう。
布包みをしまう。
一つ。
二つ。
三つ。
全部ある。
市場はもう、朝になっていた。
声が増え、
匂いが増え、
足音が増えている。
さっきまでの静けさは、
消えたように見える。
でも磁馬の絵の中には、
まだ残っていた。
夜明け前の市場。
誰も見ていないようで、
たくさんの手が動いていた時間。
磁馬は市場の出口で振り返った。
六花が野菜を売っている。
源蔵が魚を包んでいる。
二人とも、
もう準備中の顔ではない。
磁馬は小さく手を振った。
六花が気づいて手を振る。
源蔵は片手を少し上げただけだった。
磁馬は歩き出した。
鞄の中で、
夜明け前の市場の絵が、
ゆっくり朝へ向かっていた。
木箱が置かれる。
水が流れる。
野菜が並ぶ。
魚が光る。
紙片が見つかる。
湯気が上がる。
最初の客が来る。
市場は朝に変わる。
けれど、
朝になる前の市場も、
ちゃんと一日を始めていた。
コメント
1件
うわあ、このエピソード、すごく好きです。夜明け前の市場って、確かに「まだ誰にも見られていない顔」をしてるんですよね。磁馬が描く「準備中の市場」の空気感が、匂いや音まで伝わってくるようでした。六花と源蔵とのやり取りも自然で、特に「紙一枚であんな顔する人が」って六花の台詞にじんときました。小さな紙片を探す三人の連携も、市場の温かさを感じさせてくれて。朝に変わっていく瞬間の描写が美しかったです。