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「どう?」
「すっごく美味しいです…なんだか」
思わずくすりと笑った。
「なんだか、すっごく幸せな感じ」
課長はにっこりと笑った。
朝日に照らされたその笑みは、わたしを初めて救ってくれた夜のやさしい笑顔と重なった。
うん。やっぱり、やさしい人なんだ。
もしかして、昨晩は課長も酔っていたのかもしれない。
それでからかい半分で、あんなこと言ったんじゃ。
「そう言ってもらえて俺のほうがずっと幸せだよ」
「そんな…。勝手に酔いつぶれてお世話になって朝食までご馳走になるなんて…わたし恥ずかしいくらいです」
「そんなこと気にしなくていいのに」
そう言いながら、不意に課長の指がわたしの唇にふれた。
「ついてるよ」
「え…?」
「ハチミツ」
そして拭うと、その指をチュッと吸った。
「え…っ、あ、ありがとうございます…」
「ううん。可愛いから大丈夫」
そう言って浮かべた笑顔は、やっぱりキラキラ王子様のものだった。
うん、そうだ。
きっとそうにちがいない。
このやさしさが、本当の課長なんだ。
けど。
そう思ったわたしを嘲笑うように、課長の笑顔が冷やかな微笑に変わった。
「さて、サービスタイムはここまでにしとこっかな」
え?
「覚えてる?昨日の『命令』」
冷水を浴びせられたかのような変貌に、わたしは力なくカテラリーをおいた。
「キミは最後うなづいたよね。そして、雇用関係成立の乾杯を俺と交わした」
「…あんなの返事じゃないです…。卑怯です」
「卑怯もなにも、返事なんて求めてない。これは命令だと言ったろ?キミに拒否の選択肢なんてない」
これを、とトレイの上に置かれたのは、この部屋の鍵だった。
「今夜からくるんだ」
わたしはトレイをベッドの隅に置いた。
「あなた、最低です」
そしてベッドから立ち上がった。
「っ…」
けど、急に動いたせいで、頭がずきりと痛んでよろめく。
すかさず手が伸びてきて、支えてくれた。
力強い手に腰を抱かれ、わたしはびくりとなった。
そして、それが合図のように、胸が急にドキドキと痛みだした。
見上げた先に、キャラメル色の瞳と出会う。
逃がさないよ。
そう言うように、その目は鈍く光をはなっていた。
胸がさらに痛む。
ドキドキと弾けそうになる。
腰にふれる手が、熱い。
「離してください…!」
「じゃあ、俺の『命令』を受ける?」
「わかりました、受けます、受けますから…」
手が離れて、やっと解放された。
胸の痛みが、ゆっくりとおさまっていった。
「…本当にお料理をしに行くだけですよね…?それ以外もそれ以上のこともしなくていいんですよね」
「ん?例えばどういうこと?」
墓穴を掘った。
ほんとに、どこまでも人を食ったヤな人…!
もう、こうなったら自棄になるしかない。
たしかに、わたしに分が悪いわけじゃない。
理不尽に押し付けられた残業を課長がやってくれるというのは本当なんだろうし。
お互い慣れない仕事に悪戦苦闘するよりも、得意なことで能力を発揮する方が効率がいい。
適材適所。ビジネスの基本ってやつだ。
そう、これはビジネスだ。
お互いの不得手を補ういわば利害関係が一致しただけの仕事の付き合い。それ以外でも、それ以上でもない。
そう考えれば、なんだか気が楽になってきた。
「わかりました。命令を受け入れます」
「そう来なくっちゃ。じゃ、早速だけど、朝ごはん作って」
「へ」
「俺は朝もきちんと食べたいタイプなんだ。ちなみに朝は和食がいいかなー。お味噌汁には豆腐を入れてね」
「命令は夕食だけじゃ…!」
「残業は帰途についた時点で終わりだろ。でも君はまだ自宅に帰ってない。つまりまだ残業中ってこと」
くぅ…屁理屈にもほどが…。
…このっ腹黒王子…っ!!
「ああでも!材料ありませんよ?昨日ですっからかんでしたから」
「あーそうだったねぇ。でもパンケーキの材料ならまだ余ってるよ」
「…。わかりましたっ!今度はわたしがパンケーキを作って差し上げます。課長より美味しいの作ってみせますからね」
「ほんと?頼もしいな」
うきうきとうれしそうに笑顔をこぼす課長。
ああもう、この笑顔にこれからどれだけ振り回されなくちゃならないんだろう!
「その前に、まずはわたしが腹ごしらえさせてくださいね。あと、シャワーも貸してください。課長のご飯はそれからです」
「しっかりしてるなぁ。わかったよ、お好きにどうぞ。ふふ、キミ、なんか今の方が頼もしいね」
「自棄なだけです」
「あははは」
課長は手を差し出した。
「今日からよろしく、亜海」
忘れていた胸の痛みが、一瞬だけ復活した
名前読みは…不意打ちだ…。
差し出された手を取ると、ぎゅっと握られた。
もう後戻りできないことを確信させる力強さだった。