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放課後の空気は少し湿っていた。夕焼けが差し込む相談室に、そっとノックの音が響く。
「……どうぞ」
蓮司が気怠そうに言うと、ドアがゆっくり開いた。
入ってきたのは、細い肩の少年だった。
制服の袖を握りしめ、視線を床に落としたまま、椅子の前で立ち止まる。
「……座れよ」
促すと、少年は小さくうなずいて腰を下ろした。
蓮司は机の端に腰をかけ、煙草の代わりにペンを指で回す。
「で、今日は何。先生に言えねぇことか?」
少年はためらいがちに口を開く。
「……人の目が、怖いんです」
声は蚊の鳴くように小さかった。
「誰かに見られてる気がして。笑われてるような……。
歩いてるだけで、変に思われてる気がして、息が苦しくなる。
家に帰っても、SNSとか……。みんな楽しそうで。
なんか、自分だけ……おかしいのかなって」
言葉が途切れるたびに、蓮司は黙って聞いていた。
頬杖をついたまま、表情は変えない。
ただ、時折ペンが止まり、じっと相手を見た。
「ふーん……で、“気にしないようにしたい”ってやつ?」
少年は、少しの間をおいてうなずく。
「……はい。でも、無理です。どうしても、気になってしまって」
蓮司は短く笑った。
「無理だろ。気にすんなって言われて気にしなくなるなら、誰も苦労しねぇよ」
少年は驚いたように顔を上げた。
蓮司の声は、冷たく聞こえるのに、どこか妙に現実的だった。
「人間は“見られてる”ことでしか、自分を確かめられねぇ生き物だよ。
だから怖いんだ。見られてる間は、消えないからな」
「……消えない?」
「そう。誰かの目に映ってるうちは、存在できる。
でも同時に、他人の目の中でしか生きられない。
そのバランス、崩れると苦しくなる。お前みたいにな」
少年は口をつぐんだ。
その言葉の中に、どこか“分かっている人間”の響きを感じた。
「じゃあ、どうしたら……」
絞り出すように言うと、蓮司は肩をすくめた。
「気にしながら生きる。
ただ、“気にしてる自分”を嫌いにならなきゃいい。
誰かに見られてるってことは、それだけお前の存在がそこにあるってことだ。
見られて苦しいときは、ちゃんと息してる証拠だよ」
沈黙。
外の夕陽が、少年の顔を淡く照らしていた。
その頬に、ほんの少しだけ色が戻る。
「……苦しいの、悪いことじゃねぇ。
それだけお前が、ちゃんと人として生きてる証拠だから」
蓮司は椅子から立ち上がり、窓のカーテンを少し開けた。
差し込む光の中で、背を向けたまま言った。
「俺もさ、昔は人の目ばっか気にしてたよ。
でも、ある日思った。“見られてるうちは、まだ終わってねぇな”って」
振り返ると、少年は目を丸くしていた。
「……ありがとう、ございます」
その声は、少しだけしっかりしていた。
蓮司は片手を上げ、軽く笑う。
「礼はいらねぇよ。俺、別に優しい人間じゃねぇから」
その笑みは、いつもより静かだった。
外の空には、夜がゆっくりと沈み始めていた。