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第3話:日付の欄
朝の笹波駅。スーツの男が改札手前で足を止めた。四十前後、髪は分け目が薄く、丁寧に撫でつけてある。濃いグレーのスーツは肘と膝が少しだけてかり、細い縞のネクタイが喉元を固く締めている。目の下には寝不足の影、頬はこけ、くすんだ肌色にひげの剃り跡がうっすら。名前は三浦。営業鞄の持ち手には汗の跡が残っていた。
床に落ちていたクリアファイルが、ふと視界をかすめた。拾い上げると、中には紙が一枚。健康保険証のコピーだった。右上の顔写真は、今の三浦より少し年を重ねた面差しで、眉間に細い皺が一本増えている。そこまでは、よくある取り違えのようにも思えた。
けれど、紙の下側。印字された小さな欄に、見慣れない項目が増えていた。 「死亡年月日 2030年6月12日」
胸の奥で、硬いものが落ちた音がした。印字は鮮明で、手書きではない。紙の端には赤い蛍光ペンが一本、日付に沿って引かれている。手が勝手に汗ばみ、指先が震える。
三浦はホームのベンチに腰を下ろした。薄い座面が冷え、背中を伸ばすと背広の生地が軋む。視線の先、水色の空から淡い雲が流れてくる。電車まで数分。出張先の客先名を頭で反芻しようとしても、日付の数字だけが脳裏に貼りついた。
2030年6月12日。今日から一年もない。心臓が速い。息が浅い。胸の左側が、針でちくりと突かれたように痛む気がする。昨日も、階段で少し息切れした。夜にラーメンを流し込んだ。健康診断の再検査を先延ばしにしたまま。
彼は紙面から目を逸らし、コピーの写真を凝視した。未来の自分の顔は、今よりも痩せて、唇の色が悪い。ネクタイの結び目がやけにきつく見える。目尻の下に小さな斑点。今はない。置き去りにしてきたサインが、薄く増えているように思えた。
電車が近づく音。ホームに風が走り、ネクタイの先が揺れる。三浦は立ち上がり、ファイルを鞄にしまおうとして、やめた。改札横の落とし物窓口に向かう。カウンター越しの駅員は若い男性で、短めの髪に深緑のベストを着ている。胸元の名札が微かに光った。
「これ、落ちてました」
駅員は受け取って、紙を光に透かしてみた。ほんの数秒の沈黙ののち、にこやかに頷く。
「お預かりしますね」
三浦は思わず聞いた。
「こういうの、よくありますか」
駅員は、窓の外に視線を流し、また戻す。
「ときどき、不思議な書類が届く駅なんです。持ち主が見つかるかどうかは、その……運次第で」
運、という言葉が喉にひっかかった。三浦は軽く会釈し、離れかけて、振り返る。
「この日付、見ました?」
駅員はコピーの欄に目を落とし、軽く息を呑んだように見えたが、すぐにいつもの表情に戻った。
「ええ。見間違いじゃないと思います」
ホームにアナウンスが響く。乗るなら今だ。けれど足が動かない。三浦はポケットからスマホを取り出し、指先で震えながら職場に連絡を入れた。声が少し掠れた。
「すみません、本日、体調が……病院に行きます」
通話を切ると、駅員が小声で言った。
「駅前の内科、朝一なら空いてます」
三浦は礼を言い、改札を出た。朝の光がまぶしく、目を細める。鏡のようなビルの外壁に、自分の全身が映る。濃いグレーの背広、曲がった肩、背中の丸み。ネクタイを少し緩め、上着のボタンを外すと、肺が深く膨らむ気がした。
内科の待合室。木目の椅子に座ると、隣に高校生くらいの少女がいた。薄いベージュのカーディガン、前髪は眉にかかり、目は真剣に雑誌を追っている。彼女がふと顔を上げ、三浦の手元を見て、小さく笑った。
「名札、裏返ってますよ」
気づいて直す。小さなことなのに、呼吸がすっと軽くなる。診察室に呼ばれ、血圧、採血、心電図。医師は端的に告げた。
「再検査を先延ばしにしていましたね。今日の数値、良くないです。すぐ詳しく調べましょう。間に合います」
間に合う、という言葉が胸に落ちる。診察室を出ると、窓の外を一両編成の電車がゆっくりと走った。車体の横腹に朝の光が走り、水色の空をちぎって運んでいくように見えた。
午後、駅へ戻る。落とし物窓口で、朝の駅員に声をかける。
「さっきのコピー、どうなりました?」
駅員は引き出しを探り、首を傾げた。
「すみません、見当たりません。たまに、戻るんです。来たところに」
三浦は驚かなかった。不思議と、そうだろうと思えたからだ。代わりに、カウンターの傍らに置かれた小さな用紙に目がとまる。「生活習慣チェック」とタイトルがあり、裏面に小さなメモ欄がある。彼はペンを借り、短く書いた。
「来年の検査も、必ず行く」
紙を折り、上着の内ポケットへ。改札を抜け、ホームに出る。風が頬を撫で、ネクタイがすこし踊る。線路の先で光がちらりと瞬き、次の電車の音が近づく。
日付の欄は紙から消えた。けれど、自分の中に新しい欄ができた気がした。明日の約束を書く場所。三浦は肩を伸ばし、深く息を吸い、電車へと一歩踏み出した。笹波駅は今日も、誰かの今日を未来に繋いだ。
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