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第4話:ぬいぐるみの声
夕方の笹波駅。赤茶のレンガのホームを、風が低くなぞっていく。
ベージュのトレンチコートを着た女性が、足早に階段を上がってきた。髪は肩につく長さで、暗い栗色。化粧は薄く、目の下には夜泣きでできたようなうっすらとしたクマ。腕には古びたトートバッグ、ポケットからは白いハンカチが覗く。名前は岡村ゆき。三十代前半、まだ若いが、瞳の奥に疲れが残っている。
ベンチに腰を下ろすと、隣に丸い影が見えた。小さな灰色のぬいぐるみ——耳が少し傾いた犬。首に巻かれた赤いリボンは色あせ、ほつれている。ふと抱き上げると、腹の中から軽い「カタリ」という音。押すと、小さく電子音が鳴った。
『おかあさん、まだ帰ってこないの?』
ゆきの全身が固まった。声は、二年前に事故で亡くした息子・陸の声だった。少し鼻にかかった、高めの声。間違えようがない。
もう一度押す。
『あしたは動物園いこうね』
泣き笑いをしているときの声。録音した覚えはない。ぬいぐるみは、彼が生前大切にしていたのと同じ形だが、家にあるものは今、押しても何も鳴らないはずだ。
ゆきはコートの襟を握りしめ、息を吸った。夕陽がホームの端を金色に染める。
「……陸、なの?」
風が返事のように吹き抜けた。ぬいぐるみを胸に抱き、目を閉じると、三度目の声が響いた。
『おかあさん、もう泣かないで』
電車が入ってくる音が近づく。ゆきはそっとぬいぐるみを膝に置き、駅員窓口へ運んだ。
「落とし物です」
声は震えていたが、微笑もうとした。
窓口の青年駅員は、不思議そうにうなずき、ぬいぐるみを受け取る。
その瞬間、ぬいぐるみのリボンがふわりと揺れ、音はもう鳴らなかった。
ゆきは改札を出て、駅前の道を歩き出す。空は薄い水色から群青へ変わりかけている。
バッグの中で、白いハンカチが指先に触れた。涙は落ちなかった。
——声は消えても、温もりはまだ、胸の奥に残っている。