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大臣となった航(わたる)が通り過ぎた後、泥の中に突っ伏したまま、私は自分の身体を抱きしめた。 3年間、異国の地下室で、名前も知らない男たちの欲望の道具として扱われてきた。 私の肌には、消えることのない痣と、心の奥までこびりついた汚濁の記憶が刻まれている。
「……こんな体で、あなたの前に立てるわけない」
「なぜ めぐり逢うのかを 私たちは何も知らない」
あの日、手芸部の部室で「運命だね」と笑い合った純粋な二人は、もうこの世界のどこにもいない。 一人は権力の頂点に立ち、一人は地獄の底を見てきた。 私たちが織りなしてきた「青い春」という名の布は、修復不可能なほどに引き裂かれ、泥にまみれてしまった。
私は、ボロボロになった懐の中から、一冊のノートを取り出した。 あの日、ロバートに全てを奪われた時も、肌身離さず隠し持っていた『交換日記』。 ページは黄ばみ、私の涙と、そして……抗えなかった夜の汚れが染み付いている。
「航くん。あなたは今、どんな布を織っているの?」
彼は今、日米の架け橋として、新しい日本の形を織りなしている。 そこには、私のような「戦後の負の遺産」が入り込む余地などない。 航がロバートら進駐軍の上層部と握手を交わすたび、結の受けた傷は、国家の繁栄という美名の下に塗りつぶされていく。
「縦の糸はあなた、横の糸は私」
かつて愛の言葉だったそのフレーズが、今は呪いのように結を縛る。 縦の糸である航が、もしロバートの悪行を知ったら? もし、自分が愛した女が、自分の協力者たちの玩具にされていたと知ったら? 彼は、その「縦の糸」を自ら断ち切ってしまうだろう。
私は、闇市の一角で、拾った古い針と、軍服の残骸から抜いた色褪せた糸を手に取った。 震える手で、自分のボロボロの裾に、小さく、小さく、一輪の**「ささくれだった花」**を刺繍する。
「……生きてゆく物語。……まだ、終われない」
たとえ汚れきった横の糸だとしても。 この命が尽きるまで、私は自分の地獄を縫い合わせ、生きていくしかない。 いつか、この「傷をかばう布」が、同じように地獄を見た誰かを温める日が来るまで。