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2018年、冬。 東京の片隅にある古びた介護施設。窓の外には、かつての焼け跡など微塵も感じさせない、高層ビル群が冷たい銀色の光を反射している。
「おばあちゃん、またそのノート見てるの?」
若い介護士が、結(ゆい)の手元にあるボロボロのノートを覗き込む。 それは、戦地へも、アメリカの地獄へも、そして戦後の闇市へも持ち歩いた、あの『交換日記』だった。 結の指は節くれ立ち、かつて繊細な刺繍を施した指先は、今はもう思うように動かない。
「……ええ。私の、仕合わせの跡なの」
結は、性奴隷として売られたあの暗い過去も、その後の孤独な人生も、すべてをこのノートの余白に「透明な糸」で縫い付けて生きてきた。 航(わたる)は、あの大臣の座を退いた後、戦後補償と平和活動にその生涯を捧げ、数年前に表舞台から姿を消していた。
テレビのニュースが流れる。 『元国務大臣・航氏、危篤。かつての戦後復興の立役者が、今……』
結の心臓が、あの日ほつれた糸のように、微かに震えた。
「どこにいたの」「遠い空の下」
70年以上もの間、二人は一度も正体を確認し合って再会することはなかった。 結は、自分の汚れた過去が彼の輝かしいキャリアに泥を塗ることを恐れ、航は、自分が守れなかった少女への罪悪感から、彼女を探し出す勇気を持てなかった。
けれど、二人は同じ空の下で、お互いを「縦の糸」と「横の糸」として感じながら、別々の布を織り続けてきたのだ。
結は、震える手で最後の一針を動かした。 施設に持ち込んだ、たった一筋の**「紺色の刺繍糸」**。 それは、あの日、部室で彼が選んでくれた、あのブレザーの糸と同じ色。
「……これを、あの人に届けて。……『横の糸』からの、お返しですって」
結が差し出したのは、小さな、小さな布の欠片。 そこには、汚濁も絶望もすべてを包み込んだ、純白の**「仕合わせ」**という文字が、紺色の糸で力強く刻まれていた。
#糸
#糸