テラーノベル
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自分の席に戻った瑠璃は散らかった机の上を大慌てで片付け、ノートパソコンを閉じようとして左手を挟んでしまった。
「いっ……!」
ふと横を見ると、遠く離れたワークデスクで黒木が口元を隠しながら笑いを堪えている。
瑠璃は思わず頰を膨らまし、「お先に失礼します!」とフロア出入り口で軽く会釈をして出て行った。
そんな二人の無言のやり取りを、残業中の面々は見て見ぬふりをしながら、照れ臭さにポリポリと鼻を掻いた。
ピッ。
ハザードランプが点滅し、黒木が車に乗り込んだ。
「お、お邪魔します」
「はい、お邪魔されます」
「ひ、ひど」
「嘘うそ」
「もう!」
人見知りな瑠璃だが、やはり黒木との会話は軽快に進む。
奈良の前では自分から話題を振ることもなく口数は少なかったが、今は違う。
これが相性というものなのだろうかと、黒木の横顔をまじまじと見た。
「なに、また視線が痛いんだけど」
「え、いや、ですか?」
「いいえ」
車のエンジンのスタートボタンを押しながら、黒木は瑠璃に覆い被さり、今日一度目の口付けをした。
低い排気音が暗い地下駐車場に響く。
会社の駐車場でこんなことをしてしまうなんて、誰かに見られたらどうしようと思いながらも、瑠璃はそれに応えた。
チロっと舌先が微かに触れ、瑠璃の身体は助手席のシートで跳ね上がった。
「……んっ!」
その声に黒木は唇を離し、困ったような、残念そうな顔をした。
「ご、ごめんなさい、びっくりして」
「や、ごめん」
「いえ」
「嫌だった?」
「……ここじゃ、恥ずかしいです」
黒木は無言で黒い革のハンドルを握るとアクセルをゆっくり踏み、黒いタイヤは夕暮れの平面駐車場へと進んだ。
社員専用の駐車券が機械に吸い込まれ、赤と白のバーがガコンと上がる。
ワイパーが左右に動き、雨の粒が後方へと引き寄せられるように飛び、そして消えた。
(……あ)
奈良と別れた深夜、油膜が張ったタクシーの後部座席の窓から見た景色は何もかもが滲んで見えた。
それが今、目の前のフロントガラスは一点の曇りもなく、暖かな色合いの街灯が明るく映り、信号機の青は眩く、前を走るバスの赤いテールランプの帯は何処までも透き通って見える。
「係長」
「はい」
「好きです」
「ごめん、聞こえなかった」
「好きです」
黒木は一瞬黙り、赤信号でブレーキを踏んだ。
「私はもっと好きです」
「そ、そうですか」
「二年分ですから」
「は、はぁ」
「瑠璃さんと呼んでも良いですか」
そして今日二度目の口付けをした。
歩行者信号がチカチカと点滅し、信号機がぱっと青に替わった。
それでも二人の唇は離れなかった。
後続車から激しいクラクションが響く。
瑠璃と黒木の身体は飛び上がり、黒木は慌ててアクセルを踏んだ。
「瑠璃さん、これじゃ馬鹿っぷるですね」
「そう……かもしれません」
「ははは」
「でも係長、それ、もう死語じゃないですか?」
「え、そうなの?」
「そんな気がします」
暫しの沈黙の後、黒木は思い出したように瑠璃に問いかけた。
「そうだ、今夜は何が食べたいですか?」
うーーーんと眉間に皺を寄せ、人差し指をこめかみをグリグリした瑠璃は目を輝かせた。
そして食い付き気味で黒木の顔を覗き込んだ。
「係長、私、ラーメンが食べたいです!」
「え、イタリアンとかそんな感じじゃないの?」
「あまり気張ったごはんは、苦手、なんです」
「そうか」
「はい」
「助かるよ」
「はい?」
「財布が」
黒木はスーツの胸をぱんぱんと叩いて笑った。
「はい!」
瑠璃はこれまで黒木に対して気負っていたものが少しずつ解れていくのを感じた。
それは黒木も同じであれば良いと思いつつ、彼の無邪気な笑顔を窺い見た。
ラーメン店の赤い暖簾をくぐると、キャベツを炒める甘い匂いが鼻をくすぐった。
油の弾ける音、香ばしいにんにくの香りに瑠璃の目が留まった。
「係長、餃子、食べても良いですか?」
「なんで? 良いよ、ドンドン食べて。どうする? 何皿頼む?」
「そんなにいっぱい食べられませんよ!」
「私も食べるよ」
「二人ともにんにく臭くなりますね」
「これならキスしても大丈夫だよ」
真っ赤に色付いた瑠璃はその顔を隠すようにラミネートされた中華のメニュー表を閉じた。
(あ、指)
おしぼりを持とうと手を伸ばし視線を落とすと、黒木のスッと伸びた右手の人差し指がテーブルの上でタンタンとリズミカルに音を立てている。
瑠璃がそれをジッと眺めていると黒木は慌ててその動きを止めた。
「ご、ごめん」
「癖、ですか? 勤務中も時々タンタンって」
「緊張すると、つい。貧乏ゆすりみたいで自分でも嫌なんだけど」
「緊張してるんですか?」
「そりゃ、緊張するよ」
「なんでですか?」
「る、瑠璃さんと居るから」
真っ赤な顔をして横を向く黒木の事を瑠璃は失礼にも可愛いと思ってしまった。
「ありがとうございましたー!」
「ご馳走さまでした」
「どういたしまして」
そして三度目の口付けはにんにくと煙草の匂いがした。