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航くんが予科練へと発ってから、数ヶ月が過ぎた。 手芸部の部室があった校舎は、今や軍の施設となり、私は町外れの軍需工場で、朝から晩まで重い機械を動かしている。
かつて繊細な刺繍糸を扱っていた私の指先は、油で汚れ、「ささくれ」だらけになった。 痛む指を見るたびに、あの歌詞を思い出す。
「なぜ 生きてゆくのかを 迷った日の跡のささくれ……」
私たちは、生きるために戦っているのか。それとも、死ぬために織られているのか。 そんな迷いを打ち消してくれるのは、月に一度届くか届かないかという、彼からの手紙だけだった。
「……また、ここも消されてる」
休憩時間に、工場の隅で手紙を広げる。 航くんの筆跡は、以前よりも鋭く、張り詰めているように見えた。 けれど、大切な場所にはいつも、憲兵の検閲による黒い墨が引かれている。
『結へ。 こちらの空は、部室から見ていたものとは全く違う。 毎日、■■■■■を繰り返している。 縦の糸は真っ直ぐでなければならないと教えられるけれど、 俺の心は、時々ひどく■■■■。 でも、君が繕ってくれたあの制服の糸の跡をなぞると、 少しだけ、温かさを思い出せるんだ。』
「どこにいたの」「遠い空の下」
黒く塗りつぶされた言葉の裏に、彼が飲み込んだ恐怖や寂しさが隠れている。 私は、その墨の上をそっと指でなぞった。 まるで、彼の傷口に触れるように。
「航くん……会いたい。声が聞きたいよ」
声に出せば、涙と一緒に心が壊れてしまいそうだった。 私は返信のハガキに、ありったけの想いを込めて、小さな刺繍を施した。 文字を書けば検閲に引っかかるけれど、ハガキの端に一筋だけ縫い込んだ「青い糸」なら、彼に届くかもしれない。
『縦の糸は、あなたです。』
その言葉だけを心の中で唱えながら、私は針を運ぶ。 私たちが織りなす布は、今、戦火の中でボロボロに引き裂かれようとしている。 けれど、この一本の糸さえ繋がっていれば、いつかまた、重なり合えると信じて。
「……仕合わせを、祈っています」
工場の窓から見える空は、あの日航くんが言った通り、泣きそうな色をしていた。
#糸
#糸