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🌖冷曇(れいどん)
「ねぇ、どうしてこの村の人って、誰も空を見上げないの?」
それは些細な疑問だった。
けれど、それがこの村では**「問いそのものがタブー」**だった。
駅名は 冷曇(れいどん)。
曇り空の下、湿った空気が重たくのしかかる。
ホームから出ると、視界一面に同じ色の屋根、
同じ形の民家、同じ高さの木々。
すべてが**“空を見ないように作られている”**としか思えない。
街灯は下向き、看板は横向き、教会の十字架さえ斜めを向いている。
そして何より、この村には“影”がなかった。
この地に迷い込んだのは、
山下 笙子(やました・しょうこ)、35歳の気象研究員。
短めのカーキ色のコートに、紺のジョガーパンツ。
髪は無造作にひとつ結び、目元には雨に濡れたような灰色のアイライン。
彼女のカバンには、世界各地の雲の写真がぎっしり詰まっていた。
笙子はこの村で、ただひとつ気になることがあった。
それは、村の中央にある高台にだけ柵がされていること。
「ここからは上を見てはいけない」と注意書きがある。
案内役を買って出た少年が、ぽつりと話す。
「ここでは“空を見る”と、いなくなるって言われてる。 でも……本当は、“空のほうが見る側”なんじゃないかな」
笙子は夜、誰もいない時間を見計らい、
その高台に立った。
冷たい風が足元を滑る。
空はまだ、淡い灰色のまま。
──見上げた。
その瞬間、風が止んだ。
音が消えた。
そして次の瞬間、空が“なかった”。
正確には、空ではない“何か”がそこにあった。
それは、深くも浅くもない、ただの“余白”のようなもの。
笙子の身体の輪郭が、ほんの少しずつ滲んでいく。
気づけば、彼女は村の片隅に立っていた。
しかし、誰の目にも映らなくなっていた。
通行人がすれ違ってもよけない。
声をかけても返事はない。
彼女は、“空を見た者”として、この世界にうまく存在できなくなってしまった。
それでも彼女は歩いた。
空の無い場所──それは、“誰にも知られなかった観測者の国”。
村の空に浮かぶ雲だけは、彼女を見つめていた。
最後に、南新宿駅に戻ってきたとき、
彼女のカバンの中には、雲の写真が一枚だけ残っていた。
そこには何も写っていない。
ただ、白紙の上にこう書かれていた。
「空を見た者は、空の一部になる。」