🕯️灯穴(ひあな)
「……前が見えないのに、目の裏だけがはっきりしてる気がする。」
駅を降りた瞬間、世界はまるで灯りの裏側のようだった。
暗いわけではない。ただ、自分の外側に光が届いていない。
駅名は 灯穴(ひあな)。
ホームの先には、太い一本の煉瓦のトンネル。
出入口はぽっかりと空いているが、
そこから漏れてくる光は、なぜか外へと漏れ出してこない。
内部からは人の足音もしない。
ただ、壁の内側で何かが蠢くような気配だけがある。
この駅に降り立ったのは、
佐伯 圭吾(さえき・けいご)、26歳のデザイナー志望。
くすんだネイビーのパーカーに、色褪せた黒のジーンズ。
肩まで伸ばした髪をひとまとめに結び、
目元はどこか眠たげで、耳には片方だけピアス。
手にはスケッチブック。ほとんどのページは白紙のままだ。
圭吾は誰にも見せない“感情”を、
絵にすることだけで処理してきた。
けれど、最近は描けない。
自分の“内側”がぼやけてきたような感覚があった。
そんな彼が、トンネルの前で立ち止まる。
壁に貼られた注意書きにはこうあった。
「灯穴の光は“内面”を照らします。 反射した感情にご注意ください。」
入ってすぐ、視界がぼやける。
だが、自分の手だけははっきり見える。
それどころか、“描き損ねた記憶”が手の甲に浮かび上がってきた。
たとえば──
・怒鳴りたかったのに笑ってごまかした日。
・泣きたかったのに無理に描いた日。
・「好きだ」と言われて、答えを返せなかった日。
トンネルの途中には、いくつも**“映写灯”のようなもの**があった。
スイッチもないのに、圭吾の感情に反応して点灯し、
壁に“過去の圭吾”が浮かび上がる。
その姿はいつも他人の目を気にしていた。
失敗を描かず、曖昧な線でごまかす絵。
評価されるデザインだけを模倣した作品。
最奥部にあったのは、“出口”ではなく、鏡のような白い壁だった。
そこに、かつて彼が描きたかった**“本当の自分の顔”**が映っていた。
それは、
笑っても泣いてもいない、ただ“描かれるのを待っている表情”。
圭吾はスケッチブックを開き、
初めて、自分の感情を線にした。
――その瞬間、灯りが消えた。
そして、次に目を開けた時には、
南新宿駅のベンチに座っていた。
スケッチブックの最初のページに、
誰が描いたかも分からないラフスケッチが残されていた。
そこにはこう書いてあった。
「“描けなかった自分”も、描いたことになる。」
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