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吉田美希は、桜貝のネイルが光る手をひらひらと振って、賢治の黒いアルファードを見送った。午後の陽光が、廃墟と化した老人介護施設の裏手駐車場に長く影を落とし、雑草がアスファルトの隙間から無秩序に伸びていた。アルファードのテールライトが遠ざかり、エンジン音が静寂に飲み込まれると、美希の胸に重いため息がこみ上げる。賢治の最後の言葉が、耳元でまだ熱く響いていた。
「いつか妻とは別れるから」
彼の低く甘い囁きは、いつも彼女の心を掻き乱すのに、その気配は一向に見られなかった。 美希はピンクの軽自動車のドアを開け、シートに身を沈めた。車内には、彼女の甘い香水の匂いが漂い、助手席に投げ出されたバッグからリップクリームが転がり出る。彼女は大きなため息をもう一度吐き、ルームミラーで自分の顔を確認した。さくらんぼのような唇は、さっきまでの情熱の名残を宿しているのに、瞳にはどこか満たされない影が揺れていた。
「また、いつもとおんなじ」
美希は小さくつぶやき、髪を掻き上げた。賢治との関係は、燃えるような瞬間と、こうして後に残る虚しさの繰り返しだった。彼の「社長」と呼ばれたい軽い冗談も、彼女を「美希」と呼ぶ熱っぽい声も、すべてがこの廃墟の駐車場で始まり、そして終わる。
彼女はハンドルを握り、軽やかなエンジン音とともに車を走らせた。ピンクの軽自動車は、雑草が伸び放題の駐車場を横切り、ひび割れたアスファルトを軽快に進む。
だが、その背後、垣根の向こうに、黒いセダンタイプの乗用車が息を潜めるように停まっていた。陽光に照らされたボディは、まるでこの廃墟の静寂に溶け込むように鈍く光る。車内の影は動かず、まるで二人の秘密をじっと見つめていたかのようだった。美希はそれに気づかず、軽自動車を県道へと滑り込ませる。彼女の心は、賢治の言葉と自分の期待の間で揺れていた。
廃墟の駐車場は、かつて老人の笑い声や車椅子の軋む音で賑わった場所だったが、今はただの忘れられた空間だ。雑草が風に揺れ、遠くで鳥の鳴き声が響く。美希の軽自動車が遠ざかると、静寂が再びその場を支配した。だが、黒いセダンは動かない。まるでこの場所に根付いた亡魂のように、じっと佇んでいる。
美希の心には、賢治への想いと、どこかで感じる罪悪感が交錯していた。彼の妻の存在、彼女自身の日常、そしてこの関係の行く末。すべてが頭の中で渦を巻く。 軽自動車が県道を走り抜け、街の喧騒へと戻っていく。美希は信号待ちでハンドルを握りながら、ふとルームミラーに目をやる。そこには、彼女自身の少し疲れた顔と、遠ざかる廃墟の記憶があった。「次は、ちゃんと…」彼女はそうつぶやいたが、その声は力なかった。
一方、垣根の向こうの黒いセダンは、ゆっくりとエンジンをかけ、音もなく動き出した。
吉田美希が何気なくサイドミラーを覗くと、背筋に冷たいものが走った。先ほど垣根の向こうに息を潜めていた黒いセダンが、すぐ後ろにぴたりと迫っていた。ピンクの軽自動車のエンジン音が軽快に響く中、その不気味な存在感はまるで静かな獣のようだった。
(え、やだ、なに…)
美希の心臓が早鐘を打ち、喉がカラカラに乾く。黒いセダンは追い越すでもなく、煽るでもなく、一定の距離を保ちながら執拗に後を追ってくる。廃墟の老人介護施設の駐車場を後にし、県道を走る彼女の軽自動車と、黒い影のようなセダン。まるで二台の車が、目に見えない糸で繋がれているかのようだった。 赤信号で停車すると、美希の脇にじっとりと汗が滲み、こめかみの血管が脈打つ。心臓は飛び跳ね、胸の中で暴れるように鳴り響く。彼女はハンドルを握る手に力を込め、ルームミラーを恐る恐る覗いた。
(もしかして、車から降りてきたらどうしよう!)
その想像だけで、彼女の息は浅くなる。慌ててルームキーをロックし、ドアが開かないことを確認した。恐怖を振り払うように、ハンドルを力いっぱい握りしめる。指先の桜貝のネイルが、白くなるほど強く食い込んだ。歩行者信号が赤から青に変わる瞬間、美希は思わずアクセルを強く踏み込んだ。軽自動車は勢いよく前に飛び出し、慌ててブレーキを踏む。赤いブレーキランプが点灯し、後ろのセダンに不自然な動きを晒してしまった。
(やだやだ、嫌がらせしてるって思われたらどうしよう!)
美希の頭はパニックでいっぱいだった。ルームミラーを再び覗くと、緩やかな坂道の傾斜のおかげで、黒いセダンの運転席がはっきりと見えた。長い黒髪に黒いサングラスをかけた女性がハンドルを握っている。陽光が彼女の顔を照らし、深紅の唇が口角を上げ、歪んだ笑みを浮かべているように見えた。
(笑ってる? あれって、笑ってるよね?)
背筋を駆け上がる悍ましさに、美希は全身が凍りつくような感覚を覚えた。明らかにその女性は、ただ後をつけているだけではない。彼女の視線は、まるで美希の心の奥まで見透かすように鋭く、嫌らしく微笑んでいる。サングラスの奥の目は見えないのに、その視線が美希の肌を這うように感じられた。
(誰なの…? 賢治の? まさか…)
美希の頭に、賢治の妻の存在がよぎる。だが、すぐにその考えを振り払った。賢治はいつも「妻とは別れる」と言っていたが、彼女の顔さえ美希は知らない。
なのに、なぜかこの黒いセダンの女性が、彼女の秘密を知っているかのような確信が湧いてくる。 県道の車通りはまばらで、周囲には田んぼと遠くの山並みが見えるだけ。廃墟の駐車場から続くこの道は、まるで二人だけの追いかけっこの舞台のようだった。美希はハンドルを握る手に汗が滲み、アクセルを踏む足が震える。黒いセダンは依然として一定の距離を保ち、まるで彼女を追い詰めることを楽しんでいるかのように、静かに後を追う。 信号が青に変わり、美希は再び車を走らせた。だが、心は乱れたままだった。
ルームミラーに映る黒いセダンの姿が、まるで悪夢の断片のように執拗に追いかけてくる。
(このままじゃ、ダメ…)
美希は意を決し、次の交差点で右折を試みた。軽自動車がカーブを描くと、黒いセダンも遅れることなく同じ方向へ進む。その動きは、まるで彼女の逃げ道をすべて塞ぐかのように正確だった。美希の唇が震え、さくらんぼのような色が恐怖で青ざめる。
(どうしよう…誰かに、助けを…)
彼女はスマホを探そうとバッグに手を伸ばしたが、信号待ちの短い時間では見つけられなかった。黒いセダンの女性の笑みが、頭から離れない。まるで、彼女の人生そのものを嘲笑うような、冷たく歪んだ笑みだった。